日本自動車百年史 第1章 前史

第6節 内燃機関の渡来


1.6.119世紀の動力革命
1.6.2石炭と蒸気機関
1.6.3ガス機関の普及
1.6.4ガソリン機関への発展
1.6.5日本に最初に渡来した内燃機関
1.6.6日本製内燃機関の嚆矢
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1.6.119世紀の動力革命

 前節までにみたように、オートバイの始祖である蒸気エンジン付き自転車の一群は、いずれもデモンストレイションのレベルにとどまり、その普及から商業的な成功をおさめる段階には至っていなかった。これはボイラーを装備した重い蒸気機関を自転車に搭載することに無理があったことによるもの。軽量機敏さを基調とする2輪自転車にとって、燃料と一緒に水も携行して走る蒸気機関は、どうしても不釣り合いな動力源といわざるをえない。また小型蒸気機関は大型機関より多くの熱量を消費し、馬力当たりの燃料消費量は大型機関の4倍から6倍を必要とするという蒸気機関の原理的な宿命も災いしていた。この効率の悪さからいっても、蒸気機関を2輪車に搭載することの不合理性は明らかだったのである。
 蒸気機関に代わる新しい小型原動機の出現は、当時の欧州の産業界全体の熱願であった。それは20世紀末の現在に例えれば、ゼロエミッションの水素エンジンに匹敵する次世代の夢の動力だったといえよう。18世紀に誕生し産業革命の起爆剤となった蒸気機関は、人類史上未曾有の変革をもたらしたが、同時に深刻な社会問題も次々と誘発させていた。この点においても現在のガソリン機関と公害問題の相克関係に例えることができる。
 19世紀の欧州では、様々な構造をもつ小型熱機関が次々に考案されていた。その過程でまずガスエンジンが実用段階に入り、続いてこれを改良したガソリンエンジンが登場する。ただしこの新世代の内燃機関にしても、それぞれエジソンのケースのような代表的な天才が独力で考案したわけではなく、多くの発明家の試行錯誤と無数の失敗の累積の上に少しづつ実現されていったものであった。また欧州で16世紀からはじまった特許制度によって発明家は権利と利益を主張することが守られ、事業化による発展が可能になったことも当時の発明ラッシュの要因のひとつにあげられる。内燃機関の歴史に栄光の名を残した4ストローク機関の発明者オットーや、2ストロークの創始者クラーク、またディーゼルエンジンのディーゼルらは、この特許の係争を生き抜いた勝者にすぎなかったといえるのである。
 欧州に内燃機関が誕生し世紀の動力革命をもたらしたことは、燃料の応用と同時進行でおこった現象でもあった。また近代技術を持たなかった後進国の日本にこれらの技術が伝わった当初は、矢継ぎ早に輸入された新しい動力ばかりでなく、その燃料の活用法をも含めた産業構造全体を短期間に吸収することによって技術的な胎動が始まっていた。
 
1.6.2石炭と蒸気機関

 蒸気機関の燃料として使用されたのはいうまでもなく石炭だが、この石炭を採掘するために生まれたともいえるのが蒸気機関であった。
 石炭に始まる化石燃料を燃やす以前の人類は、原始以来木材を燃料としていた。この木材は燃料のみらず古代よりあらゆる材料として使用されたために、森林の過剰伐採が進む。ローマ時代に造船のために伐採し尽くした森林がその後2度と回復しなかったのと同様に、中世以降も寒冷地のイギリスを筆頭に森林資源の食い尽くし現象が広がっていた。燃料や住宅建設用の木材を近郊から採取し、さらに戦争のための軍艦や商船の建造用に国中の良質な森林資源を食いつくし、やがて自国の地上から木材が底をついた時、人々が次に求めたのが、地中に埋蔵された化石燃料の石炭だったのである。
 石炭は13世紀以来、露天坑により地表近くの浅い地層から採掘されており、小工業や家庭用の燃料などに使用されていた。やがて炭坑の近くに産業が発生し、石炭を各地に運搬するための輸送手段として、イギリスの巨大な運河網も完成していく。17世紀になると、石炭は産業や生活に不可欠な資源となり、竪坑がより深く掘り進めれられていくことになるが、同時に炭坑の出水という深刻な問題も発生していた。石炭を求めるあまり地中深く掘削すればするほど大量の水が湧出し、採掘作業が中断されるという悪循環に陥ったのである。このため炭坑が破局を迎えた最初は、17世紀の末といわれる。出水した水を地上に汲み揚げ、排出するために大量の馬を動員して日夜ポンプを回したが、その馬の飼育にかかる経費が石炭から得られる利益を上回った時に、これ以上の採炭は困難となった。
 この難局を救ったのが蒸気機関であった。初期の蒸気機関の発達は、この炭坑の出水問題の解決と同時進行している。1711年にトーマス・ニューコメン(英1663-1729)が、蒸気の冷却時の収縮力を利用してピストンを引き下げ(蒸気の膨張力を使ってピストンを押すのではなく、逆に膨張後の冷却に伴う収縮を利用していた)、平衡ビームを1分間に12ストローク動かす揚水ポンプを製作したのが、蒸気機関の実用化の始まりであった。水が蒸気に気化する時の膨張率は1,650倍といわれるが、この原理を応用して働きだした最初の熱機関が、ニューコメンのビームエンジンだったのである。この発明によって炭坑は人力や畜力に代わる新たな原動機を手にし、さらに地中深く掘り進むことが可能になっていく。半世紀後の1767年には、イングランド最大の石炭積出し港のあったニューキャッスル地方の炭坑地帯では57台の巨大なビーム機関が設置され、合計で馬1,200頭分の排水ポンプが稼働していたという。ちなみにエンジンの出力単位として現在も使用されている「馬力」とは、炭坑の排水に馬なん頭分の働きをしたかを表わす単位として始まったものである。
 ところがこのニューコメン機関も、さらに地中深くに掘り進むにつれて、排水のためにその機関自体が食べてしまう石炭の量がかさみはじめ、半世紀後には、排水に馬を使用していた時代と同様に、炭坑の採算がとれないというジレンマに陥る。出水に脅かされる炭坑は再び採炭中止の危機に直面し、これがイギリスの産業界全体をも揺るがした。この問題を解決させたのが、1765年にジェームズ・ワット(英1736-1819)が製作した、より効率の高いビーム機関であった。ワットの蒸気機関は旧来のニューコメン機関のわずか1/4の石炭消費量で排水ポンプを駆動することに成功する。すなわち同じ経費で「馬」の数が4倍になったことになる。
 ワットの蒸気機関は正確な精密部品の製作者を得ることにより発展し、製塩所、醸造所などの水汲み作業にも使われるようになり、大きな成功をおさめていく。1800年の時点で、イギリスでは約500台のワット機関が運転されていた。そしてつぎにワットは蒸気エネルギーの膨張力そのものによってシリンダー内のピストンを動かし、これを円運動に変える高圧蒸気機関を発明する。
 クランク軸とフライホィールを備え、回転運動を始めた蒸気機関は、製鉄所や紡績工場など多くの工場に設置され、水車や風車に代わるまったく新しい動力として普及する。小型化が進んだ蒸気機関は、まず地上の悪路の影響を受けない船に搭載され、風上に向かって進む蒸気船を誕生させ、次に陸上交通に史上最大の変革をもたらす蒸気機関車、そして最後に自動車とオートバイを誕生させることになる。石炭が蒸気機関のフライホィールを回し、工作機械や大規模な工場のエンジンが生まれ、つぎに交通機関に応用されたとき、19世紀の産業革命は最大の原動力を得ていた。
 こうして人類は軍事や産業のためにより多くの燃料を求め、その採取が困難になると技術をもってこれを克服し、やがて技術力とその経済性が完全に行き詰るまで燃料を消費し尽くすという、エネルギー大量消費型の産業構造を加速度を増しながら展開させていく。
 
1.6.3ガス機関の普及

 オートバイを含めて、現在までのあらゆる乗り物の発達に最大の影響を与えた動力は、内燃機関であった。もし内燃機関の発明がなくば、これら乗り物の誕生もありえなかったかもしれない。自動車に関しては19世紀末より電気自動車が実用段階に入っており、たとえ内燃機関がなくともその後の発展をみせた可能性があるが、ことオートバイに関しては、内燃機関、特にガソリンエンジンによる動力がなければ、その実用化はまったくありえなかったであろう。
 燃料と空気を混合し、シリンダー内で直接爆発させ、ピストンを動かす内燃機関の構想は、19世紀の半ばに確立された熱力学理論によって、蒸気機関よりはるかに効率の高いものと予測されていた。内燃機関の登場により、蒸気機関の危険で重いボイラーは不要となり、煙突や排煙も消え、煩わしかった始動前の釜焚きもなくなる、と期待されていた。多くの特許が申請され、試作が繰り返されたが、初めて実用段階に到達したのは、石炭ガスを燃料とするガスエンジンであった。蒸気機関が原動機として本格的な回転を始めてから半世紀後の19世紀半ばのことである。
 シリンダー、ピストン、バルブ機構など、内燃機関を構成する基本的な部品の多くは、ワットらが発明した蒸気機関においてすでに製作されていた。ただし内燃機関の場合、その気密性や摺動部分の耐久性は、蒸気機関と比較にならないほど高いものが要求され、大幅な工作技術の進歩が必要であった。また内燃機関には、蒸気機関には無かった点火装置と、空気とガスを混合するための装置(ガソリンエンジンの気化器にあたる)が必要だった。
 これらの課題を解決し、初めてガスエンジンを実用化に導いたのは、パリの機械工、エチーヌ・ルノワール(仏1822-1900)が1860年に製作した6馬力と20馬力のガスエンジンであった。ルノワールのエンジンはスライドバルブと電気点火により、1回転に1回爆発しクランク軸を回すもので、その熱効率は約5%だったといわれる。これは当時の同じ出力の蒸気機関の熱効率1.5%に比べて、約3倍の仕事量であった。ルノワールエンジンは、都市ガスを引けるところなら、どんな小さな工場でも手軽に使用できる新時代の原動機として注目される。
 ガスエンジンの実用化をもたらした最大の要因は、丁度この19世紀半ばに欧米の大都市部に都市ガスの配備が進んだことにある。当時の都市ガスとは、ワットの下で技師を務めたウィリアム・マードック(英1754-1839)らが18世紀末に発明したもので、石炭を加熱し、乾溜することによって発生するガスを利用していた。このガスは夜間の照明用に使われ、ガス灯の普及とともに各地へ広がっていく。それまで鑞燭を点していた工場はガス灯によって経費が低減され、稼働率が向上した。ルノワールエンジンが販売された1860年代には、都市ガスが家庭にまで届き、暖房や調理に使われるようになっていたのである。
 石炭ガスは、木材の欠乏と冶金技術の発達により生まれた副産物のようなものでった。古来より製鉄には大量の木炭が使用されたが、森林の過剰伐採により、木炭は慢性的に不足し、価格は高騰を続けていた。イギリスの製鉄業者は、良質な木炭の採れる森林を求めて、スカンジナビアやアメリカ大陸へ移動を始めていた。石炭はそのまま過熱すると亜硫酸ガスを発生させるために、製鉄には使用できなかったのである。17世紀以来、石炭を木炭の代用品として使用するための研究が続けられたが、18世紀半ばになると、木炭製造法を応用して石炭を炉に入れ、良質なコークスに変える技術が確立される。このコークスを製造する時に発生する可燃性のガスが、石炭ガスとして活用できることが判り、18世紀末よりガス工業が急激に発達する。
 4ストロークエンジンの発明者として名高いニコラス・オーグスト・オットー(独1832-1891)が1867(慶応3)年に製作した最初の機関も、じつはこのガスエンジンであった。オットーが特許を得た、ギリシャの円柱のような形をした1号機は、スライドバルブと火焔点火により、80〜100rpmで回転した。同年のパリ世界博覧会に出品された1馬力と3馬力のオットーエンジンは、ルノワールエンジンとの比較試験が行なわれ、1/3のガス消費量で稼働することが証明された。この審査によりオットーエンジンは世に認められ、以後広く普及していく。
 
1.6.4ガソリン機関への発展

 オットーは最初の大気圧エンジンを1874(明治7)年まで8年間製作したのち、1875(明治8)年に、より高圧の新型エンジンを完成させている。この新型エンジンが、現在も使用されている4ストロークの原理を備えた最初のエンジンとなったのだが、この時点でも燃料はまだガスであった。
 この4ストローク1号機の完成を助けたのが、1872(明治5)年よりオットーの下で技師長を務めたゴットリーフ・ダイムラー(1834-1900)だった。オットーとダイムラーは1875年から燃料にガソリンを使用する方法を考案していたといわれる。ガソリンを気化させて吸入させれば、ガスエンジンは全く同じ原理で回転することが判っていた。ただし当時はまだ、ガソリンはガスよりも希少であり、なおかつ危険で取扱いが困難なものと考えられていた。
 ただし1857年に陸軍大佐ドレークによって、原油が深い地層から限りなく汲み出せる事が発見されてからは、その採掘法の開発とともに世界各地で油田の探査競走が始まっていた。またコークス製造法の発見に端を発した19世紀の急速な化学工業の発達によって、ガソリンの精製技術も急速に進化していた。
 ガソリンエンジンの実用化と、その多様な将来性を、オットーよりも高く評価していたのがダイムラーであった。ダイムラーは1882(明治15)年にオットーと袂を分かち、独立して自らのガソリンエンジンの可能性を追及する。ダイムラーが予測していたのは、燃料をガソリンとすることによって、4ストロークエンジンは、より軽量で高回転、高出力になることだった。またそれが可搬式の動力として交通機関に搭載された時の将来性を思い描いていた。
 ダイムラーのエンジンは、1883年に赤熱管点火装置を完成させ、900rpmという高速で回り出す。ダイムラーがこの高速ガソリンエンジンを動力として試用した最初の乗り物が、1885(明治18)年に特許を得た、有名な表題(写真1)の2輪車であった。エンジンにはダイムラー製の中で最小の1/2馬力、260ccの空冷が使用された。これはガソリンエンジンを搭載した史上初の2輪車であり、オートバイ史の新たな幕開けを告げる記念すべき発明でもあった。ただしフレームの主要部分をすべて重厚な木製とし、さらに左右に補助輪まで付けた車体には、当時最新の自転車技術の応用は全く見受けられない。おそらくこの時点のダイムラーの周りには、鉄製の自転車フレームを製作できる優秀な職工がなく、木工職人しか見つからなかったのであろう。
 またダイムラーには、オートバイ自体の開発について、この最初の特許以上の興味はまったくなかった。唯一行なったアレンジは、前輪を外してソリを取り付け、雪上走行用2輪車とした考案だけであった。ダイムラーは翌1896年に馬車の車体を使った最初の四輪車とモーターボートを完成させ、続いてトロッコ、軌道車、消防ポンプなどを製作していく。1888年には風船を使った飛行機の開発にまで参加している。
 このようにダイムラーは、ガソリンエンジンの応用法にからむ多様な特許の申請に邁進したが、そのエンジンの用途として、その後もっとも大きく発展したのは、やはり最初に志し、試作したオートバイと自動車だったのである。
 
1.6.5日本に最初に渡来した内燃機関

 国産ガソリンエンジンは明治時代後期に輸入品の模製から始まり、主に自動車や飛行機用の原動機として、一歩ずつ発達の途を歩んできた。最初にその見本となったエンジンの実物は、明治20年代末よりオートバイ、自動車、飛行機の順番で、本体に搭載されたまま、欧米から渡来したものであった。ただしこれらより以前に欧州ですでに量産が始まっていた草創期の内燃機関、つまり単体としての発動機は、もう一足早く日本に渡ってきている。
 前述のように、ルノワールのガスエンジンは内燃機関として史上初めて量産された発動機であった。ルノワールエンジンは1860(万延1)年から1860年代後期までの10年足らずの間に、400機以上が製作販売されたといわれる。またオットーが最初に量産した大気圧エンジンは、1868(明治1)年から1876(明治9)年までの9年間に、ほぼ同一型式のまま2,649機が生産されていた。オットーの特許を受けたクロスレー社(英)の製作分を含めばその総数は約5,000機に及んでいる。これらの大気圧エンジンのうちの1機が日本に渡来していたとしてもまったく不思議はなかろう。
 日本でガスエンジンが回り始めるには、その前にまず燃料である石炭ガスの発生炉が実用化さなければならなかった。日本で最初に横浜のガス灯が点灯したのは、1872(明治5)年のことである。文明開花の象徴として語られた横浜のガス灯とても、1813年に点灯したロンドンのウェストミンスター橋のガス灯に比べれば59年も遅れている。
 日本でガスエンジンが運転された記録として最も古いと思われるのは、大日本国憲法が発布された1889(明治22)年に現われている。この年、農商務省総務局分析課の2等技師高崎襄太郎により、1台のガスエンジンの試験が行なわれていた(文献6より)。このエンジンは英国製だったといわれ、恐らくはオットーの特許の下でクロスレー社が製作したものと思われる。その時期からすれば、オットーが1876年から1895年までに8,321機製作販売した4ストローク1号機と同じ型式であろう。この試験でガスエンジンは好成績を示し、蒸気機関に代わるものとして始めて可能性が認知された。こののち東京瓦斯会社(明治18年設立、現在の東京ガス)では、ガスエンジンの将来性に着目し、用途を開拓するためにガスエンジン用のガス使用料の割引を行なうようになる。
 ガスエンジンに続いて輸入されたのが、石油発動機であった。オットーの4ストロークガスエンジンは気化器を取付け、燃料をガスからガソリンに変えればそのままでも回転したといわれ、1885(明治18)年にははやくもガソリン専用の電気点火式4ストロークエンジンが完成していた。しかしこの時点では、まだ欧州でもガソリンの供給は非常に少なく、これが普及するにはあと10年以上の歳月を要する。そこでガソリンエンジンに先んじて実用化されたのが、灯油または軽油を燃料とする石油発動機であった。軽油は取り扱いが容易だったためにその普及が速く、オットーの特許の有効期限が切れた1890(明治23)年以降はこれを製作する会社が急増する。石油発動機は回転数も低く、効率はそれまでのガスエンジンと変わらなかったが、燃料タンクと共に移動できる可搬式の動力だったために、定置式のガスエンジンよりも広い用途に使われたのである。
 日本へ石油発動機が初めて輸入された時期を探る手がかりとして、以下の2つの記録が挙げられる。まず(写真4)に見られるように、2代目田中久重が東京新橋に開いていた田中販売所が明治29年1月に出した広告によると、1895(明治28)年に初めて輸入してからすでに30台以上を販売したとされている。この田中販売所とは、初代田中久重が東京築地に開いた電信、銃器、諸機械類を製作する田中製造所(現在の東芝)の製品を販売するための商会である。当時の田中製造所とは、石川島造船所(現在の石川島播磨工業)と並ぶ、日本最大の民間工場であった。田中製造所では後に、下請の池貝鉄工所と共同で各種のエンジンを自製するようになる。
 また東京神田の十文字兄弟商会でも石油発動機を輸入し、これを小型船に搭載して隅田川で走らせ、多くの実業家を招待して披露していたという(文献5より)。その日時については定かではないが、明治28年以前だったことは確かであろう。
 石油発動機については、恐らくこの両者より早く輸入した先例があったと思われるが、いずれにせよガスエンジンより後のことであり、オートバイ、自動車に搭載されて輸入されたガソリンエンジンよりも早い時期にあたる。
 
1.6.6日本製内燃機関の嚆矢

 明治期の動力機関といえば、欧米先進国でも圧倒的に蒸気機関が主流であり、明治政府も蒸気機関車や蒸気船の国産化を国策上の最優先課題として、この技術の習得に努めた。京浜間の鉄道は、横浜のガス灯と同じ1872(明治5)年に開通したが、当初はその機関車本体はもちろんのこと、客車から軌道のレールに至るまでが総て輸入品であった。鉄道局が国産1号蒸気機関車を完成させたのは、開通から21年を経た1893(明治26)年のこと。また民間の汽車製造会社の1号車が完成したのは、今世紀に入った1901(明治34)年のことであった。
 ガスエンジンを国産した最初期のものと思われるのは、東京工業学校(現在の東京工業大学)が、1892(明治25)年に製作したベック(英)式ガスエンジンである。これは工部大学校(現在の東京大学工学部)出身の工学士中原淳蔵が先導となり、東京工業学校機械工芸科で試作したもので、同年始めに製作に着手、年末には完成し試運転が行なわれていた。
 見本となったベック製エンジンは、1880年代に製作された3・1/2馬力(写真2参照)で、オットーの4ストロークに比べて、掃気を1回余分行ない、クランク軸3回転毎に1回爆発する、6ストロークともいえる変則的なエンジンであった。当初、神戸の佐藤衝器製造所で購入したものが東京に移転され、これが民間では東京で最初に設置されたガスエンジンだったといわれる。この実物を分解測定して縮小し、およそ1・1/2馬力として試作したのが、明治25年の1号機であった。ただし当時は文献も少なく、その原理も充分に理解しないまま各部品を模造したために、最初の試作機は、辛うじて動きはしたものの非常に不調だったと記録されている。同校では翌明治26年に、報知新聞社と二六新聞社の求めに応じて、同じベック式を今度は3・1/2馬力に拡大し、もう2機製作し、両社に納入した(文献3より)。
 また明治27年には、東京瓦斯会社が2ストロークの1種ともいえるアトキンソン(英)製3馬力ガスエンジンを購入したが、中原淳蔵はこれを測定して、5馬力に拡大して設計しなおし、即座に製作していた。この5馬力の複製品は、電信局製機所出身で白熱舎(後に日本電気合資会社=現在の日本電気株式会社に合併)社長だった三吉正一の求めに応じて製作したもので、三吉の工場に納入されている。
 中原淳蔵は明治25年頃に東京に到着したオットー製の4ストローク3・1/4馬力も測定し、(写真3)の3面図を作図しているが、こちらは模製せずに、変則的な機関であるベックやアトキンス製のほうをを製作した。1890年まではオットーの特許が有効だったために、欧州でもこれら変則的なガスエンジンが生まれたのだが、中原らも最強の権利を有するオットーの特許に抵触するのを避けたものであろうか。また工部大学校で中原らが教えを受けたペリー教授はアトキンソン式の考案に関与していた人物といわれ、そのために生産台数も少なく、構造も複雑なアトキンス製に意欲を燃やしたのかもしれない。
 いずれにしてもここで注目すべきは、日清戦争前の1892(明治25)年に、渡来したばかりのガスエンジンが、日本の研究者達の手により即座に複製が行なわれていたことであろう。
 国産ガスエンジンの嚆矢としてよく挙げられるのは、現存する国産最古の英式6フィート旋盤を1890(明治23年)に製作したことで有名な東京芝区の池貝庄太郎の池貝鉄工所(明22年設立)が、1897(明治30)年に完成させていたものだが、池貝鉄工所では、その前年にあたる1896(明治29)年に石油発動機のほうをひと足はやく試作していた。池貝の1号石油発動機はドイツ製を模製した竪型3・1/2馬力だったといわれる。
 国産ガスエンジンが実用に耐える段階に入ったのは、発動機製造株式会社(現在のダイハツ)などが量産を開始した1906(明治39)年以降のことである。日本でガスエンジンが最も多く使用された絶頂期は1911(明治44)年だったが、この年に東京瓦斯会社で登録されていたガスエンジンは1,405基であり、総計8,024馬力が稼働していた。


 
文献1 「機械工芸会誌」機械工芸会 明治29年
文献2 雑誌「交通」明治29年1月号
文献3' 「機械学会誌」 機械学会 明治30年
文献4 「改訂瓦斯エンジン」 浅川権八 丸善 大正10年
文献5 「十文字大元伝」 同伝記編纂委員会編・発行 大正15年
文献6「東京瓦斯五十年史」有本隆一編・発行 昭和10年
文献7「日本新聞百年史」 同史刊行会 昭和35年
文献8「エンジンからクルマへ」E.ディーゼル・G.ゴルドベルク・F.シルトベルゲル 1957 山田勝哉訳 昭和59年 山海堂


●写真解説

写真1Title Photo
 
写真2:1892(明治25)年東京工業学校製作ベック式3馬力半ガスエンジン。(文献3より)
 
写真3:オットーのドイツガスエンジン製作所製作3u馬力横型ガスエンジン。1890年代初めのものと思われる。これも東京工業学校が当時作図したもの。(文献3より)
 
写真4:雑誌「交通」明治29年1月号に掲載された田中販売店の広告。石油発動機の項目には「昨年初めて輸入したるより今日に至るまで大小30余台を発売し」とある。



Title Photo
(写真1)
:1885(明治18)年8月29日付ダイムラーの特許DRP36423。



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