日本自動車百年史 第1章 前史

第3節 国産自転車の始まり(前編)


1.3.1自転車の発達期
1.3.2自転車の渡来
1.3.3国産自転車の嚆矢
1.3.4貨客運送用大型自転車の試作
1.3.5人力車から自転車へ
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1.3.1自転車の発達期

 前後2つの車輪で安定を保ちながら進むという技術は、自転車によって初めて完成されたものである。自転車の誕生により人間は初めて靴底を地面に接地させることなく自力で、しかも少ない労力で走行することができるようになった。そして自転車をさらに安楽に、また高速に走行させようという意図から自転車に動力機関が搭載され、オートバイなる乗り物が発生する。つまりオートバイは自転車の発展型のひとつであり、まず始めに自転車の完成なくしては、19世紀末におけるオートバイの誕生もあり得なかったのである。
 その自転車がセーフティ(安全)型と呼ばれる現在のような形状に定着してから、すでに1世紀以上が経過している。自転車史の上でこの100年間に付加された大きな技術革新というものはなく、19世紀末に完成したスタイルがほぼそのまま今日まで連綿と継承されてきた。遠い将来、よもや人体の形状や地球の重力に変化でも起こらない限り、あと100年後もこれとほぼ同じ型式の自転車が地上を走り回っている可能性さえ低くはない。人間ひとりが歩行する5分の1の運動量で移動することができる自転車という乗り物は、100年前においてそれだけ成熟の域に達していた。

 ただし19世紀末にセーフティ型が登場する前は、じつに様々なメカニズムが考案され、数多くのスタイルの自転車が製作されていた。欧州の自転車史では自転車の発達期間を、1817年にドイツで特許が取得されたドライジーネから、1892年に完成をみるセーフティ型までの75年間と位置付けている。もっともこれはイギリスを中心とした歴史家による定説であり、フランスなどの自転車史家からは、今も微妙な異論が提唱されている。それにしても我が国の国産自転車史より遥かに多くの記録に富み、史実の検証が繰り返されており、なかなか説得力のある自転車発達史が展開されている。
 その欧州での自転車の発達段階を、年表に示したものが表1の上段である。ここでは自転車がセーフティ型に到達するまでの過程を9種の型式に大別し、夫々の流行期を表に示してみた。この表からも判るように、欧州で発明が繰り返された自転車の類型は、1860年代から1890年代の40年間に集中的に発生していたのである。
 19世紀後半の欧州では急激な技術革新によって工場制機械工業が確立され、第1次産業革命が終了しようとしていた。新しい工作技術や工業製品が次々と登場し、あらゆる産業分野において発明のラッシュを迎えていたのである。この時期に誕生した各種の自転車を眺めてみると、それはスチールチューブ(鋼管)、ゴムタイヤ、ボールベアリング、ドライブチェインなど、新しい技術の出現に伴い、逐次改良されていったことがわかる(表2参照)。そしてこの技術のほとんどが、やがて誕生するオートバイや自動車の主要な要素を形成していくことになる。
 
1.3.2自転車の渡来

 自転車が初めて日本へ渡来したのはいつのことであろうか。
 幕末期より日本には数多くの西洋技術や機械が渡来していた。幕府や有力な藩主が真っ先に輸入したのは、軍備を進めるための武器や軍艦、また造船、製銃関係の諸機械であった。この時期に自転車のような非軍需品を率先して購入した指導者は少なかったと思われる。
 またフランスでミショー型ベロシペードが製品化され、量産が始まるのは1861(文久元)年以降のことであり、これ以前に製作された黎明期の自転車は、およそ未熟で商品価値の低いものであった。自転車の始祖といえるドライジーネは、西欧の貴族の間で一時的に流行した玩具だったし、その直後、散発的に発生した2〜4輪車も、ほとんどが試作的な単品製作にすぎなかった。
 1860(万延元)年に本格的に横浜が開港されると、ここに外国人商人が駐留し始め、欧米の商品が次々と持ち込まれるようになる。日本の生糸を求めて来航した商船は、横浜で原材料から西洋雑貨まで広範な品物を荷下ろしした。たとえ日本で売却できなくとも、東アジア、東南アジア圏の市場が控えていたわけだから、欧州で生れた新奇な発明品が、すべて迅速に極東へ渡って来ていても不思議はない。たとえば蒸気機関車にしても、明治政府がイギリスから購入する6年も前の1865(慶応元)年に、すでにイギリス人商人が長崎の海岸に軌道を敷設して走行させていたという記録が残っている。この機関車はその後横浜でも公開されたが、日本での購入者が見つからず、上海方面へ転送されたといわれる。
 日本へ最初に渡来した自転車については、いまだ明確な記録が発見されていない。ただ明治に入る前の幕末期に、自転車が渡来している可能性は高い。写真2は1865(慶応元年)に橋本玉蘭斎によって書かれた横浜開港見聞誌に登場する、「自輪車」なる3輪車である。ただしこの絵は、絵師の写生が正確でなく、残念ながらその構造に不明瞭な点が多い。また文中にはその走行原理を、『座席を上下することにより、前輪に巻きつけた糸を回転させて走る』といった主旨の簡単な解説が添えられているが、これも多分に不可解な内容ではある。はたして人の手足の力で車輪を駆動する自転車なのか、あるいはゼンマイなどを応用した原始的な自動3輪車の類だったのか、推定することもできない。筆者の橋本玉蘭斎の文調からいって、横浜にこの「自輪車」が実在し、本当に観察していた可能性は否定できないが、何れにしても実用性の低い、無名の外国製3輪車だったのであろう。異人とおぼしき女性が乗車しているところを見ると(異様に尻尾の長い犬も含めて?)、恐らく和製ではなかろう。
 次の写真3は、イギリス人画家チャールズ・ワーグマン(1832-1891)が横浜で発行した、風刺漫画雑誌「ジャパン・パンチ」明治2年1月号に掲載されたスケッチである。1869年1月1日(旧暦明治元年11月19日)の「東京開市」を風刺したこのペン画では、幸いな事にもう少し具体的な状況が描写されている。白人男性が操縦する3輪車は1863年にイギリスでジョセフ・グッドマンが特許を取得したと「ラントン(Rantoon)」(写真4)によく似ており、これと同型と考えられる。
 ラントンとは、両足で踏み板を交互に踏み下ろしながら、同時に両手のレバーを交互に引き、後輪と同軸のクランクを回転させて進む、両手両足駆動型の一人乗り3輪車であった。操柁については、両手に握った把手を手首のスナップを効かすようにして捻り、ここから複数のプーリーを介して前輪軸に連結された鎖(又はロープ)を引いて遠隔操作するというかなり凝った機構になっている。19世紀に記された解説を読み返しても細部の構造には判然としない部分があり、確かに一度どこかに現存している実物を観察して、さらに乗車してみない限りこの様な複雑な乗り物の真価は判らない。ただ、こうして四肢をフルに活用する自転車ならば、その走りっぷりは意外に速かったかも知れない。写真4の絵からも、グイグイと力強く進みそうな雰囲気がうかがえる。
 1860年代末期にチェイン駆動が出現する以前の欧州では、ラントンのような、ロッドとリンクを多用し、クランクを回転させて進む、1人乗りまたは2人乗りの2〜4輪自転車が数多く発生した。なかにはまるでカンチレバーの鬼のような複雑怪奇な作品もあったが、ほとんど実用性の低い、商品化に及ばぬ試作品が多かったのである。
 19世紀半ばにこの様な複雑な3〜4輪車が数多く誕生した背景には、2つの理由が考えられる。まず西欧では19世紀初頭から特許制度が確立され、発明狂時代ともいうべき様相を呈していた。その結果、多少素人じみた新機軸までが、次々と登録申請されている。また技術面では、モーズレー式旋盤などの工作機械の登場により、細かい金属加工が可能となり、機械製作全般における木工から鉄工への移行が進みつつあった。
 ロッドとリンクによりクランクを駆動する方式は、2輪よりも、3輪か4輪の自転車で多く試行されたが、やがてドライブチェインの誕生によりこれらはすべて一掃され、アマチュアビルダーの時代は終わりを告げる。
 ジャパン・パンチに描かれた3輪車は、恐らく輸入されたラントンか、あるいは同型の3輪車を白人が乗り、日本人に供覧したものであろう。よって明治元年に3輪自転車が日本へ渡来していたことは確実とみられる。
 以上の「自輪車」と「ラントン」の、2種類の3輪車が日本で描かれた年代は、表1に示した欧州における自転車発達過程の中でも、まだミショー型ペロシペードの時期であり、フランスで年間数百台程度の量産が開始されたばかりの頃であった。欧州でもバイシクルの呼び名が生れる前の、いわば習作期の自転車が、日本へ渡ってきていたことになる。
 
1.3.3国産自転車の嚆矢

 日本国内で製作された自転車のうち、現在までに発見されている最も古い記録は、前節の模型蒸気機関車製作にも登場した田中久重が1868(明治元)年頃に製作したという自転車である。ただしこれは田中久重の高弟川口市太郎が、田中久重没後に記した回想録「智慧鑑」(ちえのかがみ・明治24年)で簡単にふれられた記録にすぎず、いまだ史実としての確証を得るには至っていない。
 『自転車 2輪車と3輪車を製作す(明治元年の頃)』、とだけ書かれたこの一文の真偽の程が問われるところだが、少年期より田中久重と生涯を共にしてきた川口市太郎の記録の信憑性は低くないだろう。また久留米藩で鉄砲の大量生産に携わっていた田中久重は明治維新によりその作業を中断され、明治6年に明治政府工部省の招きで上京するまでしばらくのあいだ久留米に留まっていた。この期間に日本のエジソンとも例えられる機械工作の天才が、自転車を設計製作していたとしてもなんら不思議はない。もし絵でも残っていれば非常に興味深いところだが、いまのところ手がかりは少ない。また「智慧鑑」に書かれた「自転車」という名称は、23年後に記されたものであり、製作当時の田中久重らがその2輪車と3輪車を何と呼んだかについても疑問が残る。
 次に日本で製作された自転車の記録は、1870(明治3)年に登場している。この年の「東京府文書」に、4月29日付けで竹内寅次郎という名の彫刻職人が、「自転車」と名付けた3輪車の製造販売を申請し、工部省係官の現品検査ののち5月12日に許可されたという記録が残っている。その「自転車」の形状は、記録文書によると両足で踏み板を踏んで進む1人乗りと2人乗りの2種類の3輪車であった。これは文献6の調査により明らかになったもので、同文献では竹内寅次郎こそが国産自転車製造の祖であり、同時に「自転車」という名称を最初に使用した命名者だともしている。
 この説を裏付けるかのように、明治の初めに描かれた錦絵には、同様の木製3輪、4輪車が非常に数多く描かれている。表題写真と写真5は当時発行された錦絵だが、ここにも日本人が乗る3輪の「自轉車」と2人乗5輪の「後押自轉車」、そして異人の乗る3輪の「壹人車」が描かれている。同文献は、錦絵に登場する「自轉車」と「後押自轉車」こそ、竹内寅次郎が、外人が乗っていた「壹人車」を模倣して製作した3輪自転車ではないかと推定した。
 この絵に見られる木製の3輪車及び5輪車は、前出のラントンのような手足駆動型の構造に似ている。絵師の主観によるデフォルメも見られ、この絵から正確なメカニズムを探ることは困難だが、概ねラントン型と考えられよう。
 明治初頭の文明開花の様子を伝える錦絵の中には、絵師の想像による架空のものや、西洋の書画を見て描いたと思われる模写もの、あるいは他の絵師が書いたものをさらに書き写した模写ものまで含まれており、史実としての信頼性は低い。例えばここに挙げた2枚の錦絵に書かれた「蒸氣車」には、尾輪のような、トレッドの中央に位置する車輪があり、まるで蒸気機関車の体裁をなしていない。軌道以外の平坦路を走る黎明期の蒸気自動車の類に見えないこともないが、このような形状の蒸気自動車は、当時の欧米にも無かったし、用途も非現実的である。また日本最初の新橋横浜間鉄道が試運転を開始する明治4年以降の錦絵からは、じつに正確な蒸気機関車が描かれるようになり、明治3年以前のこれら変則的な「蒸氣車」はいっさい消滅する。そのため鉄道史研究家の間では、この「蒸氣車」の絵は、実物を見ないで書いた想像画ではないかと考えられている。
 ただしラントン型3輪車が登場する錦絵については、明治10年代に書かれたものまで含め、あまりに数多く残されており、安易にこの種の3輪自転車の実在を否定することができない。写真5の錦絵で異人の乗る「壹人車」の車輪は細く描かれており、もし絵師の描写が正確だとすれば、木輪の外周に輪金をはめた、明治初年当時としては一歩進化した車輪か、あるいはラントンのような鉄リムの車輪だったかもしれない。この錦絵に見られる荷車や人力車などに付いた和製の車輪は、積載荷重に応じて輪板が厚く描かれているようだ。その点に関しては論理的な描写といえよう。
 明治3年の東京では、竹内寅次郎が製作した3輪車と同様のものを外国人が乗り回していたという記録が残っている。また同年8月5日付の大阪府令では、「西洋車」と称する自転車のようなものを乗り回す者が現れ、通行人の歩行を妨げるため、その運転が禁止された(文献6)。したがって明治3年頃より、東京横浜大阪などで、輸入あるいは国産の自転車が走行しめていたことは確かということになる。
 
1.3.4貨客運送用大型自転車の試作

 竹内寅次郎は彼の「自転車」を明治3年から4年にかけて相当数製作し、売り捌いたというが、その後はしばらく休業していたようだ。そして1878(明治11)年には新型車を完成させ、3月28日付けで再び東京府へ製造販売許可を出願している。その時の写真が発見され(写真6)、ここで初めて竹内寅次郎による幻の「自転車」が姿を現した。

 その写真を見ると、驚くほど巨大な4輪車だったことが判る。しかも後ろにはトレーラー式の2輪の客車を曳き、大勢の乗客まで運ぼうとしている。先頭に立ちはだかった運転者が、この恐ろしく重そうな自転車の「動力源」だとすれば、馬なみの怪力の持主だったであろう。合計6輪のこの車輌と4〜5人分の人間の重量を合わせれば、300kgは超えていたに違いない。そして駆動システムは、哀しいかなこれまたラントン型の両手両足駆動式であった。
 竹内寅次郎は同年、東京府へこの大型自転車を使用して乗客を運送するための営業許可を出願した。2月13〜14日には東京−高崎間(112km)の試運転を決行し、休憩時間を含めて所用時間38時間40分という結果を残している。もしこの「自転車」で乗客を運ぶ営業が成立するとすれば、車輌と共に運転者の体力もかなりの高性能でなければならない。試運転の結果は製作者の期待には及ばず、結局、東京府からの営業許可も認められず、竹内寅次郎はこの自転車開発を断念することになる。
 このような貨客運送用大型自転車の製造を試みたのは竹内寅次郎ばかりではない。1881(明治14)年に東京上野で開かれた第2回内国勧業博覧会には、福島県から4台の自転車が出品されていた。そのうち鈴木三元が製作した「三元車」なる3輪車の写真(写真7)が発見され、鈴木三元という人物についての調査が行われた(文献10)。
 福島県岩代国伊達郡谷地村(現在の伊達郡桑折町)の富農で戸長(村長)でもあった鈴木三元は、明治7年に人力車を観察して以来自転車の製作を志し、明治11年には1人乗りの「自走車」と3人乗りの「奔走車」を試作し、試運転を行なっていた。その2車の詳細な構造は定かではないが、当時の記録から、「踏木(ふみぎ)」を踏んで進む、踏み板式の3輪、あるいは4輪車だったと考えられる。また鋳物師に歯車を製作させていた記録が残っており、車体のどこかにはギヤを使っていたかもしれない。鈴木三元はその試作車を改良し、明治13年には1人乗り、2人乗り、3人乗りの3種の「三元車」を完成させている。そして上京し、東京で部品を製作しながら細部を仕上げ、前出の第2回内国勧業博覧会へ1人乗りと2人乗りの2種の自転車を出品した。
 写真7は鈴木三元が製作した「三元車」のうち最大級の4人乗り型である。本人が書き残した記録などから、その駆動方法は、踏み板を踏んでクランク軸を回転させる方式かと思われる。しかしその他の詳細は一切不明であり、現在のところ唯一発見されているこの写真から推測するほかはない。
 写真では、まず、おおむね木製の3輪車だったことが伺えるが、荷箱のような形状の車体のどの位置が運転席で、どちらが進行方向なのかが定かでない。また正面の柱に取り付けられた看板には、確かに「三元車四人乗り」と書かれているが、4人もの乗客がどう配置されるのかも不明だ。ただ、左右に付いた2つの大きな車輪が駆動輪であり、車体中央部の箱に包まれたアクセルシャフトの辺りに、何らかの仕掛けがあったと推測できる。また左右の車輪のすぐ内側に付いた小さな補助輪のようなものは、鈴木三元が考案したという「自在輪」と思われ、これを、例えば右に旋回する場合には、右側の「自在輪」を地面に押しつけ、右の車輪を路面から遊離させることにより、小さく転回したものであろう。内国勧業博覧会で三元車2人乗の実車を検査した審査官の報告書にも、『魚が尾をふって向きを変えるように敏速に方向転換できる』と記されている。
 鈴木三元は福島県から上京する際に、2人乗り三元車に乗車してやって来たというから、三元車は、かなりの長距離を走破する性能と耐久性を備えていたのかもしれない。ただし運転者はシートベルトのような帯で上体を固定して踏み板を踏んでいたとの記録もあり、動力源となる運転者は、やはり相当の労苦を負わさたに違いない。
 内国勧業博覧会での審査官の三元車に対する総合的な評価は低く、その効用は無いものと判断されていた。審査官はまず西洋の自転車とは玩具のようなものであり、客や物を乗せて運ぶものではないこと、そしてこの三元車が当時すでに全国で普及していた人力車に代ってその役割を果たすほどの発明ではないと批判的である。鈴木三元は明治14年11月14日付けで東京府から三元車の製造許可を受け、横浜に売捌所を設けたが、数十台を製作しただけで成功には至らず、その後の活動を断念する。

 写真8は、昭和50年代に日本で発見された、鉄フレームに木製車輪を持つ3輪自転車であり、これも鈴木三元が製作した1人乗りの三元車との仮説がある。製作年その他の詳細は不明だが、その形状やメカニズムは、1879(明治12)年のシンガー(英)製トライシクル(写真9)に酷似している。シンガー・トライシクルは、大阪で「滑稽新聞」を発行した民族学者宮武外骨が購入し、郷里高松で乗り回していた。シンガーに乗車した宮武外骨の写真(明治16年撮影)も残っており、シンガーが日本へ輸入されていたことは確実であろう。国産と思われるこの木製3輪自転車は、恐らく輸入されたシンガーを日本で模倣し複製したもの。鉄製フレームや駆動系、また繊細な木製車輪など、その製作技術には目を見張るものがあり、とても興味深い国産3輪自転車である。しかし鈴木三元が製作したという史実は、残念ながらまだ検証されていない。
 
1.3.5人力車から自転車へ

 竹内寅次郎や鈴木三元が製作した大型自転車は、まず第一に貨客を運搬する目的で製作されたものであり、操縦者ひとりが自身の脚力によって走行する現在の自転車とは、その製作目的において大きな相違がある。これらの3輪、4輪車は、自転車というよりもむしろ人力車に近い乗り物といえよう。
 明治時代初頭に日本で発生した人力車は、明治10年にははやくも13万台もの数が登録され、全国に普及していた。そしてこの時期には、人力車に代る次の発明として、当時欧州でも発展段階にあった自転車と、すでに完成の域にあった人力車を合体させ、人力(じんりき)小型運搬車を開発する試みが繰り返されていたのである。また同様の製作意図から試作、あるいは製作の出願が行なわれた大型自転車には、上記2名のもの以外に、明治10年から13年にかけて「運転車」、「踏走車」、「器械車」、「自走人車」などといった名称で、各地に発生していた(文献8)。それらは何れも4〜8人乗りの、運行営業を企図したものであったが、どれも完成には至らず、悉く失敗に終わっている。不成功の最大の理由は、車両の総重量があまりにも重くなり、パワーウェイトレシオが極端に低くかったからである。竹内寅次郎の大型「自転車」なども、現在の我々からすれば、まさに無謀な設計であり、人力(じんりょく)をかように酷使する発想そのものが信じ難い。製作から試運転に及んだだけでも、驚異的な努力だったといえよう。
 明治初期にこのような大型自転車の試作が行なわれた背景には、当時は人の労賃よりも馬を使う費用のほうが高価だったという経済的な要因があった。まだ鉄道の軌道が到達しておらず、水運手段も持たない地域を結ぶ主要街道では、高級商人などが移動するための交通手段として、西洋式の馬車運行が成立していた。そこで馬車よりも少ない経費での営業を見込んで、人力輸送手段としての大型自転車を考案したのであろう。明治初期に人力車夫が急増する直前まで、日本には駕篭(かご)かきという職業が確立されていた。明治29年の最盛期には全国で21万台もの人力車が登録されていた事実からしても、人が人を運ぶ行為が自然に受入れられる日本社会の特殊性というものがあったのである。

 人力車と自転車を組合せる試みは、明治28年に至ってもまだ発生している。写真10は、東京の「都新聞」に掲載された記事の挿絵に描かれた3輪車だが、この記事では、山梨県の石原清吉がこれを考案し、石川県金沢市で試運転をし、販売を始めた旨を伝えている。この時期になると、安全型自転車ふうのハンドルが付き、いわゆる輪タクの原型に近づいている。アジアには現在でも輪タク型式の自転車が使用されている地域があり、その呼称のひとつ「リキショ」は、'Rickshaw'という英語にもなっているが、これは日本語の「人力車」が語源である。
 明治期の国産自転車を製造技術の上からみると、その製作には、一足先に量産が始まっていた人力車の製造技術が応用されていたことがわかる。明治10年代に製作された竹内寅次郎の大型「自転車」や、鈴木三元の「三元車」の写真をみると、その木製車輪の外周には輪金がはめられているのが見える。このような車輪は人力車関係の車大工が製作したものである。
 またソリッドゴムタイヤは明治20年代の終わりから、人力車用の車輪に採用され始めており、明治30年代から国産化が始まるワイヤースポークにしても、当初は自転車より、おもに人力車工場で使用されていた。人力車製造の開拓者であり最大手でもあった東京銀座の秋葉大助商店(写真11)では、明治38年よりアメリカのグッドリッチ社に人力車用ゴムタイヤを、また明治40年代にはイギリスのダンロップ社に人力車専用の空気入りタイヤを大量に特注し、日本での一手販売を行なっていた。日本における空気入りタイヤの需要のはしりは、じつは自転車ではなく人力車だったのである。現在も残る明治期の人力車用ダンロップの中には、秋葉の社名入りタイヤを発見することができる。
 江戸時代まで日本の車大工が製作していた木製車輪は、明治初期には人力車用の車輪として軽く繊細に進化し、渡来した自転車の模製にも応用されていたのである。
(この節、後編に続く)



文献1 'Radfahrsport Bild und Wort' Paul Von Salvisberg 1897
文献2 'King of The Road' Andrew Ritchie 1975
文献3 「人力車」 齊藤俊彦 昭和54年
文献4 「自転車」No.1〜66 日本自転車史研究会 昭和57年〜平成4年
文献5 「明治自転車文化展カタログ」自転車文化センター 昭和59年
文献6 「日本における自転車の製造・販売の始め」交通史研究13号 齊藤俊彦 昭和60年
文献7'Early Bicycles' Nick Clayton 1986
文献8 「明治10年代前半における自転車事情」(『西南地域の史的展開』近代篇より) 齊藤俊彦 昭和63年
文献9「日本における初期自転車変遷の試み」(「自転車」No.48) 大津幸雄 平成元年
文献10 「自転車に乗った鈴木三元」福島史学研究55号 田島昇 平成4年


●写真解説
写真1:欧州で発達をみた自転車の典型。左からドライジーネ、ベロシペード、オーディナリ、トライシクル、オーディナリ、カンガルー、クロスフレームセーフティ、空気入りタイヤオーディナリ、空気入タイヤセーフティ。(絵は文献1より転載)
 
写真2:「横浜開港見聞誌」(1865、慶応元年)に現われる『自輪車』の絵。(文献4より転載)
 
写真3:「ジャパン・パンチ」1869(明2)年1月号に「Openning of yedo」と題して描かれた3輪自転車。外人が乗るラントン型自転車と、それを見る日本人の一群に新しい時代の幕開けを表した。(文献4より転載)
 
写真4:1863年ジョセフ・グッドマン(英)製作3輪自転車「ラントン」(文献4より転載)
 
写真5:錦絵「当世い車づくし」明治初年 辻亀版(天理参考館資料)
 
写真6:1878(明治11)年竹内寅次郎製作大型「自転車」(文献6より)
 
写真7:1881(明治14)年鈴木三元製作「三元車4人乗り」(自転車文化センター資料)
 
写真8:国産一人乗り3輪自転車(製作年不祥)(自転車文化センター資料)。写真向かって左側に前進する。両足でペダルを交互に踏みこむことにより、リンケージされたロッドが前後に動き、後輪クランク軸を回して進む。操柁はふたつの前輪の真上にある把手を旋回方向へ捻るように回して行う。そのためまるで自動車のようなドラッグリンクとタイロッドが付く。次の写真9と見比べたし。日本人の手による模製自転車の好サンプルといえる。木製の車輪や、鋼管を使わない鍛冶工によるフレームワークに、当時の工夫や技術水準を読みとることができる。
 
写真9:1879(明治12)年シンガー(英)製トライシクル(文献2より)。構造は写真8と全く同じ。ただしこちらの方が少し大柄。若き宮武外骨が乗り回したのもこれと同じ三輪自転車。
 
写真10:1895(明治28)年9月21日付「都新聞」より、石原清吉製作3輪自転車(資料提供須賀繁雄)。人力車の前に自転車を取り付けた輪タクのようなもの。当時はプロフェッショナルな車夫が引く人力車のほうがはるかに機動力が高かったのではないだろうか。
 
写真11:「諸車製造所秋葉大助」東京博覧会絵より(文献4より転載)。東京銀座にあった明治期最大の人力車製造工場。左の絵にあるように人力車に限らず、乳母車から馬車に至るまで各種の車を製作していた。ベロシペード型木製自転車の絵もあり、自転車も製作していたことがよくわかる。人力車の製造技術を応用すれば、自転車から馬車までが比較的容易に作れたことに注目されたい。わが国ではこれら人力車〜馬車の製造技術が自動車車両に発展することはなかった。後述するように、明治30年代の第一期国産自動車は、重い鉄道車両の製造技術に頼ったことが失敗を招いた一因でだったのである。
 
写真12:人力車用木製車輪の図(文献3より転載)。東京で使われた輪板9枚、直径3尺7〜8寸の型。素材にはカシやサワグルミを使用した。鍛造した輪金を熱して膨張させてから、木製リム(輪板)に焼きばめる。




●脚注
 
1)チャールズ・ワーグマン・Charles Wirgman(1834頃〜1891)
イギリスのジャーナリスト・漫画家。一八六一年(文久一)頃来日。六二年「ジャパン‐パンチ」創刊。油絵を教え、門下に五姓田義松・高橋由一・小林清親など。横浜で没。
 
2)シンガー・(Singer)ミシンで有名な英国の自転車メーカー。1900(明治33)年よりオートバイを、1912年より自動車を生産。
 
3)宮武外骨・みやたけ‐がいこつ(1867〜1955)
(名は亀に因み、トボネともよむ) 歴史家。本名、亀四郎。廃姓外骨とも称。讃岐生れ。「滑稽新聞」などを発刊、政府批判・風刺により再三筆禍にあう。東大法学部の明治新聞雑誌文庫主任。著「筆禍史」「私刑類纂」「賭博史」など。



別添
表1欧日比較19世紀自転車発達年表
表2欧州での自転車部分品別発達過程

 
Title Photo
錦絵「東京繁栄車往来之図」1870(明治3)年孟斎芳虎画(天理参考館資料)


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