日本自動車百年史 第1章 前史

第2節 日本初の模型蒸気車製作
- 1.2.1 黒船来航と蒸気機関の渡来
1.2.2 ロシアの黒船が持参した模型蒸気車
1.2.3 佐賀藩精練方
1.2.4 佐賀藩の蒸気車雛型
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1.2.1 黒船来航と蒸気機関の渡来
江戸時代末期、泰平の世を揺るがし、徳川幕府崩壊の引き金となったのは、黒船の来航であった。徳川幕府の鎖国政策から2百年以上にわたり眠り続けていた日本の在来技術も、黒船が示した先進技術によって覚醒され、明治維新をめぐる大変革へとつながっていく。
歴史の教科書で学んだように、ペリーの黒船が浦賀に入港したのは、1853(嘉永6)年、明治維新の14年前のことであった。
19世紀に入ると、欧州の蒸気船と、その航海技術はめざましい進歩をとげ、植民地貿易に不可欠な、航路や寄港地の確保のために、各国がしのぎを削るようになっていた。その激しい競争に、あとから割って入ったのが、アメリカ-メキシコ戦争(1843年)でカリフォルニア地方を領有し、太平洋岸の良好な港湾を手に入れたばかりのアメリカだった。アメリカには、対中国貿易や、当時彼等が盛んに行なっていた捕鯨のためにも、太平洋航路を占有し、ライバルのイギリスを牽制する目的があった。司令長官ペリーの任務は、日本に開国を求め、もし日本がこれを拒否すれば、アメリカ東インド艦隊の軍艦4隻の武力行使をもって、開港を実現させることだったといわれる。
ペリーは2度目の浦賀への来航(1854、安政元年1月)に際し、将軍へ33種類に及ぶ献上品を持参している。この中には、有線電信機、時計、望遠鏡、小銃、農具などと共に、一台の蒸気機関車の模型が含まれていた。ペリーは蒸気船や大砲と一緒に、先進国の文明利器を見せつけ、彼らがいうところの「半未開人」である日本人を萎縮させ、外交交渉を有利に運ぼうとしたのである。いわば贈物に名を借りた威嚇でもあった。
蒸気機関車の模型は、ペリーの献上品目の中でも、目玉の品だったと思われる。動力源としての蒸気機関は、19世紀初頭からイギリスで急速な改良が繰り返され、すでに実用段階に入っていた。徳川幕府も、蒸気機関を使った陸上交通機関誕生の噂については、長崎経由の海外情報から知り得ていたようだ。だが、人を乗せて実走する蒸気機関車を、目の当たりにするのは、日本ではこれが始めてであった。ペリーが持参した模型蒸気機関車(写真1)は、1854(安政元)年2月15日、横浜に陸揚げされ(写真2)、幕府の横浜応接所裏の麦畑で、1周約60間(110m)の2呎ゲージの円状軌道が敷設され、8日後の2月23日に運転が公開された(写真3)。
この模型が走行したときの様子は、艦隊の随行員F・L・ホークスの「ペリー提督日本遠征記」に詳しく記されている。時速20哩(32km/h)で走る模型蒸気機関車が引く、客車の屋根に跨がった幕府の役人は、「振り落されじと一生懸命屋根の端に歯噛みついて、面白そうに歯を露出して笑っていたが、実は怯さに戦々身体を震はしていた」(鈴木周作訳、同遠征記)。また試乗した幕府側の役人の一人、河田八之助は、その時の体験を次のように日記に認めている。「火発して、機活き、筒煙を噴き、輪皆転じ、迅速飛ぶが如く」。まずは、相当なインパクトだったに違いない。
ペリー遠征記は、当時の日本人の様子を、幾分、蔑視をもって描いていた。ペリー側は、電信機と模型蒸気機関車の公開を、「より高度な文明的見せ物」として優越感を抱きながら日本人に示している。これに対し、将軍家からの返礼は、じつに日本的な贈物と、これまた日本的過ぎるほどの、相撲の観覧だった。ペリーのために催された、25名の力士による相撲の様子は、「野蛮な動物の残忍な格闘」として、非常に蔑視され、アメリカ側が示した先進技術に対し「愉快な対照を成していた」と記されている。
ペリーは動揺する幕府の応接掛、林大学頭らとの外交交渉を有利に動かし、4年後には、不平等条約として名高い、日米修好通商条約の調印を実現させることになる。19世紀産業革命の原動力となった蒸気機関は、海上を移動する砲台としての蒸気船(=ペリーの艦隊)や、高速で疾走する蒸気機関車の実物をもって徳川幕府に提示され、日本の中央政府を震撼させたのである。
1.2.2 ロシアの黒船が持参した模型蒸気車
浦賀に入ったペリーのアメリカ艦隊とは別に、ほぼ時を同じくして、ロシア側の艦隊も日本へ向かっていた。ニコライ1世のロシア政府は、アメリカ議会でペリー艦隊日本派遣議案が通過したという情報を逸早く入手していた。そこで極東に近いロシアとしてもアメリカに対抗すべく、急遽プチャーチン海軍中将を代表として派遣し、ペリー艦隊と同数の4隻の軍艦を、長崎へ入港させたものであった。
プチャーチンは日本に開港通商を求めると同時に、北方領土の分割点を明確にするという2点について、徳川幕府との交渉をくり返した。この時プチャーチンは、軍艦上で、ペリーと同様に蒸気機関車の模型を日本人に公開している。そして、このロシアの模型蒸気車は、横浜でペリーが将軍に献上したものとは、まったく異なる波及効果を日本にもたらすことになる。
プチャーチンの艦隊が長崎に入港したのは、じつはペリーより6ヵ月早い1853(嘉永6)年7月のことであった。プチャーチン使節団の随行員だった小説家ゴンチャローフが書いた「日本旅行記」は、当時の「謎の国」日本を次のように表わしている。
「これぞ閉めたまま鍵をなくした玉手箱だ。これぞ各国が金力と武力と奸策とを使い、無駄骨折って手なづけようと覗ってきた国である。これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と法規によって敢えて生きんとしてきた人類の大集団である。外国人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、この国を教化せんとする我々の企図を嘲笑している国である」
ゴンチャロフはロシアの文豪と呼ばれただけあって、ペリー遠征記の従軍記者のような目とは少し違った、鋭い観察を行なっている。
プチャーチンの模型蒸気機関車の走行は、旗艦パルラダ号の士官室の中で行なわれた。その時の様子をゴンチャロフの「日本旅行記」は次のように記している。
「我等はまた、彼等に示すに幻燈(げんとう)、蒸気車模型、軌道などをもってして百方彼らをなぐさめたり。蒸気車が蒸気を吐いて自動的に疾走するさまを、彼らは口打ち開き見惚れいたり」
つまり、ここでも日本側の役人は蒸気車の走行するさまを、唖然として、口を開けたまま見とれていたことになる。
プチャーチンとの交渉のため江戸から長崎へ派遣された幕府応接掛(おうせつがかり)の中心人物、勘定奉行、川路左衛門尉聖謨(かわじさえもんのじょうとしあきら)は、その時の様子を、彼の「長崎日記」にこう記している。
「(彼らは・筆者注)蒸気車をシッポク臺のうえにてまはしてみせたり。5寸ばかりもあるべし。飛ぶがごとくにまはるなり。これはよき焼酎をもやして、それにてまわす車なり。ムスコウ(モスクワ)よりヘトル(ペテルブルグ)迄、280里(1,120km)を人500人をのせ、数艘の車をひきて一日にゆくと申すなり」
ロシア艦内で走ったこの模型蒸気車については、まだ定かな絵やスケッチが発見されていない。ただ、机の上でぐるぐる走り回ったという記述からして、ペリーのものよりもさらに小型の、アルコール燃料を使った、いわばライブスチームだったと思われる。
川路聖謨が模型蒸気車の走行を見た1854(嘉永7)年とは、イギリスで最初の定期鉄道路線が開通した1825年から29年もたった時点であり、6年前の1848年には、ロンドン西北鉄道のロンドン号がすでに時速126km/hの高速で疾走していた。したがってプチャーチンの説明も、あながち誇張ではなかったろう。また川路聖謨がこれを見た1854(嘉永7)年1月4日とは、横浜でペリーの蒸気車が公開された日の、ひと月半前にあたる。
ところが日本でプチャーチンの模型蒸気車が走るところを見た者は、川路ら幕府の応接掛だけではなかった。さらにその5ヵ月も前に、−すなわちペリーの模型機関車よりも半年前に、地元の佐賀藩士数名がこれを見学していたのである。
プチャーチンの艦隊は、前年の7月に長崎に入港をすませ、それから約半年のあいだ、川路らが江戸から長崎入りするのをじっと待ちわびていた。そこで当時、長崎港の警護を担当していた佐賀藩の藩主、鍋島直正は、一足先に、家臣の本島藤太夫らをプチャーチンの艦へ出向かせ、そこで軍艦の内部や大砲、また例の蒸気車についても子細にわたり観察させていた。本島藤太夫の日記「松濃落葉」には、7寸ばかりの模型蒸気車が円臺の上を回走し、燃料にはアルコールを用いた、と明記されている。その日付は1853(嘉永6)年8月24日であり、黒船が持参した模型蒸気機関車を日本人が始めて目撃したのは、じつはこの時だったことになる。
1.2.3 佐賀藩精練方
江戸時代、日本でただひとつ開かれていた長崎港は、海外の最新情報を仕入れることができる唯一のアンテナであった。また中央の幕府へ海外情報を伝える、情報発信基地でもあったろう。例えば徳川幕府は、ペリーとの交渉の際に、パナマ地峡横断鉄道(1855年開通)の建設状況をペリーに質問してアメリカ側を大いに驚かせたというが、これも長崎経由で幕府が得ていた情報のひとつにすぎなかった。つまり長崎警護を担当していた佐賀藩とは、徳川幕府以上に、国際情勢に精通した組織だったのである。
19世紀に入ると、日本の知識人は、植民地闘争や産業革命を経て巨大化した欧米の軍事力を、深刻な脅威として考え始めていた。また幕府も、アヘン戦争で中国が無残に敗退したことを、かなりの衝撃として受け止めていた。だが、江戸時代初期のまま2世紀ものあいだ凍結していた日本の技術力では、とうてい洋式の軍事力に対抗し得るものではない。この圧倒的な軍事力の格差を直視し、自力で対応しようとしていたのが、佐賀藩と薩摩藩であった。技術の発展を禁制とし、抑止していた徳川幕府も、国際情勢に対応すべく徐々に軍備を進めつつあったが、それとて常に佐賀、薩摩の後手にまわっていたのである。
佐賀藩はフェートン号事件(1808、文化8年)で苦汁を喫して以来、隠密裏に軍備拡張を押し進めていた。1850(嘉永3)年には、近代的な洋式大砲と洋式軍艦の製造を目的とした大型工場、大銃製造方(写真4)まで建設している。動力に水車を使い、反射炉から起重機(クレーン)までを備えたこの工場は、蘭学を貪欲に学んで設計されたもので、プチャーチンが来航する前年の1852(嘉永5)年には、すでに近代的な大砲の鋳造に成功していたといわれる。前出のプチャーチンの艦船で、最初に大砲や模型蒸気車を見学した日本人、本島藤太夫とは、じつはこの佐賀藩大銃製造方の長、すなわち工場長だったのである。
また佐賀藩主鍋島直正は、同年に、鋳造、冶金、薬品の総合研究所として「佐賀藩精練方」(Title
Photo)を建設し、日本中から優秀な技術者を召集していた。この精練方とは、当時の日本の最高水準をいく科学研究所だったのである。精練方掛(がかり)には、京都で理化学の研究実験に打ち込んでいた洋学者中村奇輔、また丹後田辺藩(現在の舞鶴)から召集された蘭学書の翻訳者石黒寛次、そして「からくりや儀右衛門」の異名をもつ久留米の時計師田中久重の3人が抜擢されていた。中村奇輔とは、西洋人に作れるものなら必ず自分にも作れると豪語する情熱的な科学者だったといわれ、後に実験中の事故がもとで没すまで、この精練方で近代技術の導入に心血を注いだ人物である。
プチャーチン艦内で模型蒸気車の走行を目撃した日本人というのは、前出の佐賀藩大銃製造方、本島藤太夫だけでなかった。じつは精練方の代表、すなわち日本側の科学者代表ともいえる、中村奇輔までが随行し、蒸気車を入念に観察していたのである。川路聖謨ら幕府応接掛によるプチャーチンとの談判を外相会談に例えれば、本島藤太夫と中村奇輔の両名がロシア軍艦の内部や模型蒸気車を見に出向いたのは、技術調査団の敵場視察にあたろう。初めて蒸気車の走行を見たふたりは、生涯2度とないほどの強い衝撃を憶えたという。
彼等はこの事実を藩主鍋島直正に伝え、即刻、精練方での蒸気船と蒸気車の雛型(模型)製作を申し出て、許可を得た。試作にあたっては、鍋島家収蔵の洋書を石黒寛次が翻訳し、中村奇輔が蒸気機関の機構を検証し、機械工作の天才田中久重が部品をひとつずつ製作するという連携体制がとられた。この3名は、2年間の開発期間を経て、小さな模型蒸気車を製作し走行させている。中村奇輔らが蒸気車雛型を完成させ、その走行ぶりを鍋島直正に披露したのは、1855(安政2)年8月1日のことであった。これを見学した一人は、「ひとが作った生き物でもない物体が、アルコールに引かれて自ら動いて行くとは不思議だ」と記している。(Title
Photo)は、鍋島公への披露の様子を描いた絵である。
1.2.4 佐賀藩の蒸気車雛型
佐賀藩精練方が製作した蒸気車雛型は、今も佐賀県立博物館に実物が保存されている(写真6)。また昭和34年には、これが鉄道記念物に指定され、東京神田の交通博物館によって正確な複製が行なわれた。複製品のほうは現在も同館に展示されている(写真7)。
この蒸気車雛型こそが、国産初の蒸気エンジンをもつ陸上交通機関の試作車だったのである。また、我が国で今日までこれが現存していることも特筆に値しよう。当時の日本の技術水準を検証する資料として、これ以上のサンプルはない。
この模型の原動機は、アルコール焚きの小型蒸気機関と呼ぶべきものだが、欧米では、同じ動力を使い、初期の自転車に搭載した二輪の試作車が、1869(明治2)年以降、各種誕生している(それらの詳細については後述する)。また自動車史の上でも、自動車の始祖と呼ばれる、1769年にフランスのキュニョーが作った砲車(大砲を陸送するための木製3輪車)は、初期の原始的な大型蒸気機関を搭載していた。このような観点からすれば、佐賀藩で小型蒸気機関が速やかに試作されていたことは、日本自動車史の上でも注目すべき史実ということになる。歴史に仮説は禁物だが、小型蒸気エンジンは機関車用の試作模型としてだけでなく、2輪、3輪、4輪の軽車輌用の原動力へ発展する可能性を内包していた。実際の製作にあたっても、鉄道より、むしろこちらの方が近道だったかもしれない。欧米で生まれた各種の試作蒸気自動車にしても、蒸気機関車以上の工作技術を要してはいない。またこの蒸気機関が進化したからこそガソリン機関が誕生する。ただ単に、当時は蒸気機関車による鉄道整備が急務とされ、同時に、日本には自動車が走れるような道路交通網も皆無だったのである。
じっさい、佐賀藩精練方が製作した蒸気車雛型を観察すると、その金属加工技術の正確さには驚かされる。旋盤加工やギヤの切削加工などは、とても江戸時代の製品とは思えないほどだ。日本に洋式旋盤(モーズレー式足踏旋盤)が始めて輸入されたのは1856(安政3)年といわれるが、その前年にすでに蒸気車雛型を完成させていた田中久重らは、在来の轆轤(ろくろ)などとは比較にならないほど、精度の高い工作機械を駆使していたに違いない。
よく産業革命の原動力は蒸気機関だったといわれるが、カール・マルクスは資本論の中で、じつは1796(寛政9)年にイギリスで発明されたモーズレー式旋盤こそが産業革命の起点だったとしている。それほど19世紀に誕生した近代的な工作機械の果たした役割は大きかったのである。洋式の足踏み旋盤やフライス盤は、次の工作機械を生みだすための親機でもあった。これに水車や、蒸気機関などの動力が加わることにより、大幅な労力と作業時間の短縮が図れたのである。日本でも、佐賀藩、薩摩藩だけでなく、水戸藩が、水車を動力とした大砲の鑚孔(せんこう=中ぐり)に挑み、歴史的な成果をあげていた。幕末期のこれらの記録は、わが国の近代産業革命のあけぼのとしてとらえることができよう。
わが国で江戸時代末期までに使用されていた工作機械は、原始的な手回し轆轤(ろくろ)と、もみ鑚(きり)の2種だけだったといっても過言ではない。徳川幕府は、質素な道具を使い、工芸的な技術をもって一子相伝の秘技を究めることが職人の美徳という哲学を広め、国家的な情報操作まで行なっていた。その結果、前節でふれた製銃技術なども、織田、豊臣の時代以上に発展することがなかったのである。もし徳川幕府が、造船技術と製銃技術を鎖国以前の水準のまま凍結していなければ、江戸時代末期以降の日本の技術革新は、明らかに別の様相を呈していたに違いない。
からくりや儀右衛門の別名で知られる田中久重は、精巧なからくり人形、また後世の時計史家がびっくりしたという万年時計(現在は国立科学博物館に展示)の作者として有名だが、56才で佐賀藩精練方に召集される以前にも、蒸気を使った「からくり」を多数考案していた。佐賀藩精練方に在籍中にも、模型蒸気車だけでなく、外輪船と内輪(スクリュー)船の2種類の模型蒸気船から、電信機までを試作した。その後は久留米藩に戻り、兵器や各種の機械類の開発を行ない、1868(明治元)年には自転車を製作したという記録もある。維新後は、明治政府工部省に招聘され、1874(明治6)年に上京、電信寮製機掛として電信機械の製作修理にあたり、ヘンリ電信機やモールス電信機を試作している。工部省退任後は、民間工場田中製作所(後の芝浦製作所、現在の東芝)を開設し、電信機器の製作販売を行ない、82才で東京に没した。この田中久重こそは、近代技術の先駆者、また日本近代工業の開祖だったのである。
中村奇輔ら佐賀藩の技術者は、ロシアの模型蒸気車の走行を、ただ観察しただけで、あとは文献と実験を頼りに、自力で蒸気車雛型を完成させていた(プチャーチンの模型蒸気車は、艦上での公開後に持ち帰ったと考えられる)。一方、ペリーが横浜に持参した、大型の模型蒸気車のほうは、将軍家に献上され、江戸には実物が存在していたはずである。だが幕府には、これを研究して、試作するだけの行動力がなかった(ペリーが献上した蒸気車は、のちに兵庫海軍操所へ移管され、同所で焼失したといわれる)。
アメリカとロシアの黒船が、浦賀と長崎にほぼ同時に来航し、開国を迫ったときの徳川幕府の動揺ぶりは、「泰平の眠りをさます上きせん、たった4はい(隻)で夜も眠れず」と、狂歌にまでうたわれて揶揄された。まさに前門の虎、後門の狼に震え上がっていたのである。ところが後方で狼と対峙していた佐賀藩や薩摩藩は、着々と西洋技術の吸収と軍備拡大を進め、やがて龍と化して倒幕を果たす。一般の歴史書では、中央政権としての徳川幕府が直面した、政治外交の表舞台である、ペリー来航が取り上げられるが、技術史の上での重大事件は、九州で水面下に起こっていたのである。
維新後の明治政府は、可能な限り欧米の技術を取り入れ、富国強兵に邁進する。なかでも鉄道建設は「鉄道立国」と呼ばれるほどの国是とされた。鉄道建設を強力に推し進めた大隈重信(1838〜1922)は、かつて、18才の佐賀藩士時代に、精練方が製作した蒸気車雛型の走行を見学したうちの一人であった。鉄道建設の反対勢力を強引に押し切った大隈には、科学者中村奇輔らによって裏付けられた、鉄道技術確立に向けた自信があったのかもしれない。明治22年にテロを受け片足を失った大隈は、政界引退後、当時輸入されたばかりの四輪自動車をいち早く愛用する。そして1910(明治43)年に設立された、日本初の自動車クラブ「日本自動車倶楽部」の会長を務めた。
佐賀藩精練方が行なった近代技術導入の努力は、やがて明治政府の政策をもって結実する。明治維新の12年前に製作されていた小さな蒸気車雛型は、後の日本の技術革新を暗示するマイルストーンだったのである。
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- 文献1「佐賀藩海軍史」大正6年、秀島成忠編
文献2「鍋島直正公伝」大正9年、候爵鍋島家編纂所
文献3「田中近江大掾」昭和6年、田中近江翁顕彰会
文献4「佐賀藩銃砲沿革史」昭和12年、秀島成忠編
文献5「図説日本蒸気工業発達史」昭和13年、ワット生誕200年記念会編
文献6「蒸気車誕生」三崎重雄、昭和19年、新太陽社
文献7「明治前日本機械技術史」明治前日本科学史刊行会、昭和48年、日本学術振興会
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●写真解説
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- 写真1:ペリーが将軍徳川家定に献上した模型蒸気機関車。絵は絵師の主観から、わざと珍奇な形状にデフォルメされている。(天理参考館資料)
写真2:1854(安政元)年2月15日、横浜応接所の献上品陸揚げ風景。「ペリー提督日本遠征記」より。模型蒸気機関車が描かれているのがわかる。背景に見える電柱と電線は、電信機公開のため、ペリー側使節が仮設したもの。(交通博物館資料)
写真3:1854(安政元)年2月23日、ペリーの模型蒸気機関車が横浜応接所の裏で走行した時の様子。当日写生していた榊令輔の絵をさらに模写したもの(交通博物館資料)。最もリアルに状況を伝える唯一の記録である。幕府の役人、河田八之助が2本指しで客車の屋根に腰掛けている。左の群衆の中には、ペリーと林大学頭もいる。「長さ6尺(1.8m)」の4分1スケール車は、石炭焚きの本格的なもので、ペリーの使節は、なんとポイントまで設置していた。別の記録では、軌間は550mm、軌条巾17mm、枕木間隔は293mmだったと記されている。
写真4「築地石火矢鋳立方図」(昭和初期)陣内松齢 画。1850(嘉永3)年、佐賀藩が城西北の築地に建設した大銃製造所の絵。設立の1年後には、洋式大砲の鋳造に成功した。10基ほどの大砲が描かれている。(文献4より)
写真5:1855(安政2)年、佐賀藩精練方製作「蒸気車雛型」。全長397mm、全高312mm、全幅108mm、気罐幅93mm、軌間143mm。内側には、後部にアルコールランプ、中央部に小さなシリンダーを装備し、ギヤを介しだいぶ減速して動輪を駆動する。クランク軸は相当な速さで回転したと思われる。写真は大正期に撮影されたもので、安政年間に作られた原型に最も近い。(文献1より)
写真6:これも同じ実物の写真だが、戦後になって撮影されたもの(交通博物館資料写真より)。動輪の位置が変更されており、戦前期に一部修復の手が入ったのが分かる(昭和13年に編纂された文献5の写真では、すでにこれと同一形状になっていた)。写真5にはない中間の輪は、車輪ではなくフライホィールであり、軌道には接地しない。なぜか減速比も変更されている。蒲鉾型ボイラー上部の4つの突起物は、左から煙突、蒸気抜き、安全弁、水口の順。後尾にある箱状のものはアルコールタンクである。(鍋島家所蔵品・現在は佐賀県立博物館に展示)
写真7:同蒸気車雛型の実物。昭和30年代に交通博物館で展示していた時の写真。
写真8:田中久重(1799〜1881)。
写真9:1869(明治2)年、フランスで試作された蒸気エンジン付自転車。ミショー製の自転車に、ルイ・ジローム・ペローが自製のアルコール焚き小型蒸気エンジンを搭載したもの。
シリンダーは単気筒で、クランク軸の両側にフライホィールを持ち、革のツインベルトで後輪のプーリーへ動力を伝える。サドル下には横置きの円筒形ボイラーを持ち、後方にアコールタンクと、水タンクが付く。ステアリングヘッド前方の圧力計に合わせて、操縦者がペダルを少し漕ぎだすと、蒸気エンジンが回転を始め、走行を開始する。車輪は木リムだが、フレームは無垢の錬鉄製。ブレーキはない。
ペローは、この蒸気自転車の前にも、6連大砲(1836)や、水門システム(1841)、動力付き丸ノコ(1843)など、各種の発明を残していた。まるで日本の田中久重を連想させる。この蒸気自転車はフランスに実物保存されている。
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●脚注
- 1)ペリー・Matthew
Calbraith Perry(1794〜1858)
アメリカの海軍軍人。一八五三年七月(嘉永六年六月)わが国を開港させるため東インド艦隊を率いて浦賀に来航、大統領の親書を幕府に提出。翌年江戸湾に再航、横浜で和親条約を結ぶ。後に下田・箱館に回航。帰国後「日本遠征記」三巻を刊行。ペルリ。漢字名、彼理。
2)プチャーチン・Evfimii
Vasilievich Putyatin(1803〜1883)
ロシアの提督。一八五三年(嘉永六)長崎に来航。五五年二月(安政元年一二月)日露和親条約、五八年日露修好通商条約を締結。また、伊豆戸田(へだ)で帆船を建造、洋式造船技術を初めて日本に伝えた。
3)ゴンチャローフ・Ivan
A.Goncharov(1812〜1891)
ロシアの小説家。克明重厚な作風によって知名。一八五三年(嘉永六)に、プチャーチン提督に随行して日本に来航。小説「平凡物語」「オブローモフ」「断崖」、紀行「フリゲート艦パルラダ号」(「日本渡航記」はその一部)など。
4)林鳳岡・はやし‐ほうこう(1644〜1732)
江戸中期の幕府の儒官。鵞峰の次子。名は信篤。僧号、春常。一六九一年(元禄四)聖堂が湯島に移された際に、初めて僧形をやめることを許され、大学頭に任官、以後これを世襲。
5)鍋島閑叟・なべしま‐かんそう(1814〜1871)
佐賀藩主。名は直正(なおまさ)。初名、斉正(なりまさ)。つとに西洋の文物を採り入れ、長崎に砲台を築き、反射炉を設け、また殖産を奨め、学問を興し、幕末の名君として知られた。公武合体に尽し、維新後、開拓使長官など。
6)田中久重(初代)
・たなか‐ひさしげ(1799〜1881)
幕末・明治初期の技術家。久留米の人。久留米絣の織機を製作。また水仕掛けのからくり人形を作り、「からくり儀右衛門」と称。京都で蘭学を学び時計の製作などに従事。のち大砲や汽船の汽缶を製作。維新後は東京新橋に田中工場を設立、電信機械を製作。
Title Photo
「佐賀藩精練方絵図」(昭和2年)陣内松齢画。中央で蒸気車雛型が走行している。1855(安政2)年8月1日の試走の様子を描いたもの。右側には蒸気船の模型も置かれている。(文献1より)
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