日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編


第6節 ド・ディオン・ブートン来る(後編)
-
- 2.6.1 神戸に到着したモーター・トライシクル
2.6.2 外人居留地と内地雑居
- (→目次へ帰る)
2.6.1 神戸に到着したモーター・トライシクル
日本で走行したド・ディオン・ブートン型モーター・トライシクルのうち、現在のところ最も確かで古い記録は、神戸の新聞に登場している。
(写真1)の記事は1901(明34)年9月6日付神戸又新日報に掲載されたもので、2枚の絵図と共に、新着の3輪「自動車」の構造解説を試みた、この時期としては画期的な内容であった。以下に全文を掲げる。図中の付番を明瞭にしておいたので、見比べながら読み進んで頂きたい。
●『自動車(初めて神戸に舶来したる)
「原名ウオート、モビル」
去月(先月)上旬、初めて我神戸に舶来せし自動車と云うは、米国の最近発明にかかる快走三輪車にして、即ち第一図に示せる如く三輪の車より成りて、大体の構造は自転車と相似たるものなるが、只其特殊の点は其後部に石油発動機を添付しいるにて、其れを以て電気を発せしめ、其電力にて車を運転せしむる仕掛けなり。
依て乗用者は、そのハンドルを握りて操縦するまでにして、自転車の如く脚を労する事を要せずとなり。而して此自転車の速力は中々自転車などの及びも付かぬものにて、速力を疾むる時は日本の汽車よりも尚一層の速力を有し居るとぞ。
此は欧州にても目下大流行にて、仏蘭西の貴族社会などにては子守等が之れを乗用に供し居るとの事なるが、其価格は我が国の中等社会以下の居住せる家屋の価と匹敵する由にて、大概千円許りのものなり。又今回仏蘭西巴里より独逸に通ずる快道を、仏人が同車にて競走する計画ある由なり。
今図に據て車体の構造の大略を示さんに、第一図は全部の側面図、第二図は後部正面を現したるものにて、第二図の(チ)は原動力を発する石油発動機にして、(リ)は石油燃焼口、(ヌ)は電力発動機、(ル)は蓄電機にして(ニ)も是と同じく。第一図の(ハ)は電力の増減機にして、速力を加減するものなり。ハンドルの極端にある(イ)を捩れば全く電流を遮断す可く、(ロ)は車の惰力を止むるもの。(ホ)は第二図の(チ)の在所を示せしもの。(ヘ)は左輪、(ト)は右輪、(ソ)は(ヘ)と同じく、(オ)は(ト)と同じきものなり。
故に之を運転せんとするには、最初第一石油により電力を起し、(ハ)にて運行す可き為め、我欲する程度の速力を定めて、其小さき柄を起こせば其速力にて運行を開始すべし。而して之が進行を止むるには、ハンドルの
(イ)を下にて捩って電流を断つなり。然れども、尚ほ惰力によりて進行をし居れば、ハンドルを採り居る右手の指を(ロ)にかけてハンドルと共に握らば、忽ち後輪の下に設けいる歯車様のものにて之れを食い止め、茲に全く進行を止むるに終る。
されども斯は、操縦に不熟練なる時は、不慮の災難を惹起す可し。現に三四日前、当地居留地にて、某外人が此の自動車に打乗り走り出せしが、操縦不熟練なりしと見え、速力俄かに加わり矢を射る如く走りしかば、外人は大いに驚きて飛降りしが、車は主人を失ひし侭一直線に突進し、米利堅波止場の傍らなる石垣に衝突して破損し、漸く停まりし由なるが、随分危険にも又滑稽なりしと云へり。』(句読点、()内は筆者)
まず見出しにある、「初めて神戸に舶来したる」という記述に注目されたい。内容からして、居留地情報に詳しい記者が外人から助言を受けて書いたと思われるが、記者は『去月(8月にあたる)上旬、初めてわが神戸に舶来せし』、と書き出している。おそらくは東京に到着した4輪自動車などの噂を聞き及んだ上で、神戸にやって来たのはこれが最初と位置づけたものであろう。
またこのトライシクルを前出のような「石油発動3輪車」、あるいは「自動石油3輪車」とは呼ばずに、『自動車・・・原名オートモビル』としたのは、この時点ではまだ自動車(4輪)と自動自転車の区別がついておらず、動力付の自転車も「自動車」の一種と考えられていたためであった。同様の解釈は同時期の東京でも行なわれている。絵が示すように神戸に到着したのは、ド・ディオン・ブートン型のモーター・トライシクルそのものであった。
|

|
a,前輪バンドブレーキ
b,後輪バンドブレーキ
c,気化器
d,イグニッションコイル
e,乾電池ケース
f,エアー/スロットルバルブ
g,スロットルレバー
g',エアーレバー
h,消音器
i,i',キルスイッチ用配線
j,キルスイッチグリップ
l,点火時期レバー
m,デコンプレバー
|
第1図を見て面白いのは、前輪が後輪よりも大きく写生されている点。このような構図は、明治中期以前の錦絵に描かれた自転車にしばしば見られる。おそらくはミショー型やオーディナリ型自転車の名残なのであろう。実際のトライシクルには、3輪とも同寸タイヤが装着されていたはず。ハンドルの角度も錦絵的な表現といえよう。1890年代前半の欧米では、自動自転車はそれ以前の自転車のように前輪が大きく、また自動車は逆に馬車の影響から後輪が大きく製作されがちであった。この傾向は空気入りタイヤの普及と共に、前後輪同一径スタイルに統一されていったが、人々の目にはそれまでなれ親しんだ形状が、印象に残っていたのであろう。
この記事を書き上げた記者の最大の過ちは、これを電気の力によって推進する乗り物としたことにある。文中では肝心な石油発動機、すなわちエンジン(図中の「ヌ」)を電力発電機と呼び、石油によって電力を起こす仕掛けと説明している。しかし実際の原理は、いうまでもなくガソリンの燃焼によってエンジンを回転させ、駆動力を得ていた。電気はたんに点火に用いていただけである。
ではなぜこのような誤解が生じたのかといえば、おそらく点火時期を調整して、速力をコントロールしていたからと思われる。当時のド・ディオン・ブートン型トライシクルには、使いきりの乾電池とイグニッションコイルによる電気点火、また気化器にはサーフェイス・キャブレターと呼ばれる箱型の装置が使用されていた。この気化器は現行のスプレー式キャブレターが登場する以前に使われた原始的なもので、希薄な混合気しか発生することができない。そのため加減速のコントロールは、現在のエンジンのようにスロットルを開閉するのではなく、むしろ点火時期を変えることによって行なっていた。つまり点火位置を早めるとエンジンの回転が上がり、非常に緩慢ではあるが、車速が高じていくのである。第1図の「ハ」はこの点火時期調整レバーを指しており、これを操作して『速力を加減する』ところから、『電力にて車を運転せしむるものなり』と勘違いしたのであろう。
現代の我々がド・ディオン・ブートン型トライシクルを操縦してみると、まず最初にこの操作方法に違和感を感じる。サーフェイス・キャブレターを操作する2本のレバーを調整して最適な混合気を設定し、点火時期レバーを動かし、徐々に加速していったとしても、いざ止まろうとする時は、これらのレバーをいっぺんに戻すことはできない。ハンドルグリップのキルスイッチ(第1図の「イ」)を捩り、電気点火を止めても、圧縮比の低いエンジンはなかなかエンジンブレーキがかからず、また4本目の操作レバーであるデコンプレバーを引いたとしても効果はない。結局は非力な後輪ブレーキに頼らざるを得ず、車体は惰性でどんどん進んでいくことになる。
このような複雑な操作を、当時初めて乗車した人が、にわかに会得するのは困難だったに違いない。それはたとえ輸入者の外人でも同じことだったのであろう。文中にあるように、神戸港で走行した外人がコントロールを失い、あわてて飛び降りたのも想像に難くはない。
2.6.3 外人居留地と内地雑居
ここに登場する居留地とは、幕末の開国以来各地に設けられた、外国人のための居住地のことである。1858(安政5)年の6港開港協定により、下田、函館、神奈川、新潟、長崎、兵庫の地が選ばれ、やがて外国人により港湾が整備された。なかでも横浜と神戸は、貿易業務の中心地として西欧的な都市建設が進み、華やかな外国文化が展開された代表地であった。
居留地は当初、外国人と日本人の間の紛争を避けるための隔離手段であったが、外国政府に自治権を認めたために、不平等条約として問題が高まり、1899(明治32)年7月17日付けで、日本の各自治体に吸収されることになる。つまりこの時以来、外国人は国内のどんな土地も歩けるようになり、逆に日本人も居留地内に自由に出入りできるようになった。この居留地の消滅は内地雑居と呼ばれ、安政の開国以来、本当の意味で第2の開国だったのである。
1899(明治32)年の内地雑居は、欧米からの輸入品についても、それ以前と以後では状況を大きく変化させた。神戸又新日報の記者が居留地内で見たトライシクルも、内地雑居の後だから報道できたといえよう。
1896(明29)年のH&W輸入以降、神戸で観察されたこのトライシクルまで、オートバイ輸入の正確な記録が不明瞭であり、その5年のブランクの間にも何らかの輸入があったかもしれないと筆者が推測するのは、この内地雑居以前の時期が重なっているためである。
記事の最後にもあるように、このトライシクルは、神戸港の海岸通りに今も残るメリケン波止場で走行していた。しかも乗車した外人が操縦不慣れだったために、石垣に衝突してしまった様子が記録されている。
『ずいぶん危険にもまた滑稽な話といえり』と揶揄した記者は、最新の文明利器、「自動車」を、全く実用性のないものと判断したようである。ただし紙面を大きく使い、原理の詳述を試みているところをみると、このトライシクルの到着が、それなりの事件だったことは間違いない。
ところが前後の同紙を調べてみたが、残念なことに、関連記事や続報は2度と登場していなかった。したがって、ここに記載されたトライシクルの車名や輸入者、またその後の経緯について、いまだ詳細は得ていない。唯一の手がかりは文中にある、『米国の最近発明にかかる』とのくだり。これを信用するならば、問題のトライシクルはフランス、ド・ディオン・ブートン社製のトライシクルではなく、1900年から1901年頃にアメリカで生産された模製品だったことになろう。
現時点で筆者はこのトライシクルをアメリカ製の「トーマス・オート・トラィ」だったと推測している。その考証については、翌月東京に出現した同型車の顛末と共に後述したい。メリケン波止場で暴走したトライシクルを皮切りに、東京ではオートバイを取り巻く本格的な動きが始まっていく。
- ●写真解説
写真1Title Photo
写真2・ド・ディオン・ブートン(仏)製トライシクルの構成(2面)
写真3・ド・ディオン・ブートン型エンジンの基本原理。左上がサーフェイス・キャブレター、左下はそのコントロール部の断面
Title Photo:
1901(明34)年9月6日付神戸又新日報(7頁)
Go to 100 Years of Japanese Motor History page
Copyright ゥ 1994-2001 / Kikuo Iwatate
iwat@st.rim.or.jp
- Printed as "Nihon Autobi Shiron" on
"Motorcyclist extra edition"(Yaesu Publishing
Co.)1992-1994
- Last Updated 7th July 1995
|