日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第4節 近代技術の成立期
- 2.4.1 明治20年代の気運
2.4.2 農業思想家十文字信介
2.4.3 尊農子と海山猟夫
2.4.4 電気機械製造の先駆者三吉正一
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2.4.1 明治20年代の気運
日本の産業革命は日清戦争前後から日露戦争にかけて発生している。
維新後の明治政府は欧米式の近代工業技術を貪欲に吸収し、強力に産業を啓発した。その殖産興業、富国強兵政策がようやく実を結び始めるのが、日清戦争(1894-95・明27-28年)がおこった明治20年代であった。
明治10年代までは、新技術を習得するための人材の育成や海外派遣、また外人顧問の招聘が国策として積極的に続けられていたが、その第2世代の子弟や門下生が成長し、やっと自立し始めるのが、この明治20年代にあたっている。維新以後の20年間に高額な棒給で「お雇い」された外人顧問は、のべ3,000人にのぼったといわれ、その多くは工部省に直接所属する技術系の教官や技師たちだったのである。
新工業の扶殖がそれほどまでに急務とされた理由は、まず第一に、後進国日本の在来技術が欧米の列強国に比べ著しく立ち後れていたからであり、また同時に、欧米本国においても、この19世紀後半には、多くの新しい技術が目まぐるしく誕生していたからである。ガスや石油、電気の登場により、工場機械や交通機関が一新されつつあり、動力革命が各産業分野に矢継ぎ早に波及し、重工業が発展していく。この時期、日本の新世代技術者達は、先進国で続出する新発明を逸早く吸収すべく、じつに機敏に行動していた。日本史の上でも、産業技術の分野がこれほど活気に溢れ、躍進した時期はなかったであろう。
1896(明29)年1月に皇居前で試運転されたH&Wは、日本で最初に走行したガソリン機関を搭載する乗り物であった。前出の東京の新聞各紙の記述からも、H&Wは単なる新種の自転車、あるいは新奇な発明品としてだけではなく、ガソリンエンジンを搭載した陸上交通機関の可能性をアピールする目的で公開試運転が行なわれていたことが分かる。そしてこの年は、ちょうど日清戦争を契機に、日本の諸工業が勃興した直後でもあった。H&Wを輸入し走行させた中心人物、十文字信介と、その計画の最先者といわれた三吉正一も、この明治中期特有の進取の気運のなかで活躍した先覚者だったのである。
2.4.2 農業思想家十文字信介
前出の新聞記事で、十文字信介は、十文字商会、及び猟具館の主人として紹介されていた。また「最新機械の輸入に熱心な」実業家とも呼ばれていた。ところが十文字は、H&Wなどの新種機械の輸入販売を生涯の生業とする単なる事業家ではなかった。このいわば役違いと思えるほどの人物による展開が、日本オートバイ史の幕開けとなった史実を90年間も埋もれさせた一因といえるのだが、十文字商会の機械輸入業は、氏の多彩な経歴のほんの小事にすぎなかったのである。
明治過去帳(物故人名事典・昭46版)によると、十文字信介(1852-1908)は、まず宮城県選出の衆議院議員、また猟銃の名手及び鉄砲業、そして農業雑誌の編集長兼農具販売業として記録されている。また「百家高評伝」(久保田高三編・明28年刊)では、明治百家のひとりに挙げられる名士であった。
陸前仙台藩の支藩涌谷藩の士族(伊達家家臣)として嘉永5年に生まれた氏は、明治4年に上京し、箕作秋坪(1825-1886)の三叉義塾で英学を修め、津田仙(農学者1837-1908・津田塾大の創始者津田梅子の父)の学農社に入社、明治期最高の農学書といわれる「農業雑誌」の主筆編集長を務めている。また津田仙の影響の下、農具や肥料普及のために全国を回り、農業改良、養蚕奨励に努めた。その間、広島県と宮城県の勧業課長、および農学校長に在官。そして日本初の総選挙(アジア最初の議会でもあった)、1890(明23)年の第1回衆議院選挙に当選し、政界入りした。議員活動においても農事改良に奔走したが、汚職に塗れた議会に失望したとして、第2回選挙への出馬を拒否し、政界を去っている。
その後、野に下って開いたのが、東京神田の猟具館と十文字商会であった。1894(明27)に設立した十文字商会は、まず肥料の輸入や、農機具の販売を行ない、やがて農学書の出版や農業雑誌の発行に主力を注ぐようになる。
H&Wの輸入は、十文字が政界を退き、弟の十文字大元と共に十文字商会を開設し、実業界に転身した2年後、信介44歳の時に行なわれた。またH&W試運転の2年後には、「農事雑報」(明治31年〜42年・月刊)を発刊し、再び文筆活動に戻っていく。つまり日本初のオートバイ輸入試運転は、いわば農事啓蒙活動のブランクにあたる時期に、片手間的に行なわれていたことになる。当時の十文字商会の輸入販売活動については、弟の大元の業績を伝える伝記(文献2)のほうに記されている。
十文字大元(1869-1924)1)は、今も残る「自彊術」という健康法の創始者として知られる。明治25年から27年にかけて渡米した大元は、帰国後、シカゴ滞在中に得た知識をもとに素速くドイツ製石油発動機の輸入販売を行なった。H&W試走の前年にあたる明治28年に、この石油発動機を小型ボートに搭載し、隅田川で航行実験を行なっていたことは前述のとおりである。
また大元は、石油発動機を動力として小型発電機を回し、日本最初の活動写真を映写させたことでも名を残した。日本映画史に特筆される、この神田「錦輝館」の活動写真上映は、大元の在米中の友人だった櫛引弓人2)がアメリカから持ち帰ったばかりの映写機を動かしたもので、大元自ら弁士となって「エジソンの水撒き」などを映写し、大いに話題を呼んだ。H&W試走の直後のことである。
十文字商会は、他にも輪転機や発電機、また消化器などの最新機械を積極的に輸入したが、これは米国帰りの弟大元の先見と手腕によるものであった。渡米の時期からいっても、大元がパイオニア期のオートバイや自動車をアメリカで見聞していた可能性は高く、石油発動機も、その高い将来性を予測したからこそ輸入販売に踏みきったものであろう。当時はすでに大資本の輸入商社や外国商館が乱立しており、それらに比べ、十文字商会はごく小さな輸入商にすぎなかったのである。

2.4.3 尊農子と海山猟夫
十文字信介は、銃砲を製作し、銃猟指導書を執筆したことでも名高い。涌谷藩の十文字家は代々砲術師範だったといわれ、氏は狩猟を唯一の趣味とし、音に聞こえた猟銃の名手であった。陸軍砲兵工廠の払い下げ銃を利用して、自ら「管銃」、「杖銃」という名の銃を考案、特許を得て製造まで行なっている。また日本最初の民間製銃所、横浜の金丸謙二郎商店(明14年設立)は、金丸謙二郎と十文字が共同開設したものであった。金丸謙二郎商店は、明治20年代に民間最大の製銃所として村田銃を大量に生産したが、いまでも当時の猟銃は相当数が現存しており、その銃に記された丸十( )の刻印は十文字の名を意味しているといわれる。
また明治24年には、村田経芳3)らの依頼により、日本初の銃猟指導書、「銃猟新書」を著した。これは猟銃、狩猟技術の解説から、狩猟道徳にいたるまでを丁寧に解説した良書で、信介の死後も、第10版まで版を重ね好評を博した。明治24年に発刊された雑誌「猟之友」に多く登場する「海山猟夫」なる筆名も十文字信介のものである。
このように十文字の経歴は多岐に及び、その功績は日本農業史や銃砲史にしばしば登場する。とくに氏が明治農業の発展に与えた影響は少なくないといわれ、生涯の大半を日本の農学啓蒙に捧げた功労者といっても過言ではない。農業雑誌では「尊農子」の筆名を使い、明治36年に視力を失った後もなお、口述筆記により執筆、明治41年、57歳で他界するまで、精力的に「農事雑報」の発行を続けた。
これら農業雑誌や、銃猟関係の書物には、十文字の生前の活動が数多く記録されている。ところがH&Wを輸入し、試走させた記録については、前述の新聞記事や工学雑誌以外には、全くといってよいほど残されていない。自動車関係の雑誌にしても、現在までに筆者が発見したものは、前出の、大正期に記された吉田眞太郎と伊東太郎の2者の回顧談に「十文字」の名が現れるだけであった。しかも、H&W試走の後に、日本人として最初にオートバイによる長距離走行を行なったと思われる吉田眞太郎でさえが、『(十文字の輸入については)噂だけで、誰もその車を見た者がない』と語ったほど、古くからこの事実が忘れ去られていた。H&W試走は、十文字本人や側近の間でも、なぜかその後2度と語られることのない、隠れた事件だったのである。したがって明治期のオートバイ・自動車界の開拓者達が記録できずに埋もれていたとしても不思議はない。
東京神田の十文字商会は、信介の3男、十文字信夫(故人)の手により、1946(昭21)年まで、同所で経営は続いていた。信夫の未亡人やその御子息(信介の孫にあたる)は、今も東京や神奈川にご健在だが、どなたもH&W輸入の件に関しては、聞き及んではいないようである。
2.4.4 電気機械製造の先駆者三吉正一
前出の毎日新聞記事「石油発動自転車試運転(下)」(1896・明29年1月22日付)には、十文字の言として、以下のような一節があった。『この(石油発動)自転車を率先輸入したるは我猟具館なれど、実地活用を企図したる最先者は、三吉正一氏なり』
H&Wの輸入から皇居前での公開試運転までの一連の行動は、十文字商会および猟具館4)の独力によって為されていた。そして史上初の量産オートバイであるH&Wがドイツで誕生したという事前情報や、その将来性予測については、米国帰りの大元が認識していたのかもしれない。しかし上記記事には、もう一人の当事者「三吉正一」の名が登場している。
この三吉正一がH&W輸入の実地活用を企図した最先者だったとすれば、三吉は石油機関を動力としたオートバイ・自動車などの将来性について、最も早期より着目し、十文字に影響を与えた先覚者だったということになる。三吉の足跡を辿ってみると、当時の先駆技術者達と草創期の日本産業界の動向をうかがうことができる。
三吉正一(1853-1906)は、国産初の強電機械、15kw直流発電機を製作(明18)した、わが国電気機械製造の大先達といわれる。発明家としても、足踏製糸機(明10・第1回内国勧業博に出品)や、絹巻電線製造機を考案し、高い評価を得ていた。明治23年、初めて国産電球を製造した白熱舎も彼の会社でもあり、H&W試走の明治29年には、日本最大の電球工場、東京白熱電燈球製造Mを経営していた。
そもそも三吉は、工部省電信局製機所(明11年設立)に入所して電機技術を習得した技師のひとりであり、同期の電信局製機所からは、ほかにも石杉社(のちの安立電気)を創設した石黒慶三郎と杉工謙太郎、また明工舎(のちの沖電気)を創設した沖牙太郎など、わが国電機業界のパイオニア達が輩出されている。そして電信局製機所出身の技術者達とは、日本近代工業の開祖、田中久重の門下生達でもあった。電信局製機所はトップレベルの官工場だったが、まだ田中久重の田中工場(当時最大の民間工場・のちの芝浦製作所−現在の東芝)と、互いに人材や機材を分けあっていたといわれる。三吉らは田中久重に指導を受けた最後の世代にあたろう。
三吉は発電機の動力として石油発動機を使用したパイオニアであった。明治27年には、東京工業学校に依頼し、5馬力ガスエンジンを製作させ、小型発電機を回したことは前史で述べた。この時期、三吉はすでに石油機関の将来性を高く見積もっていたと考えられる。
当時の電気業界はもっとも有望な産業と目されており、電気を得るために必要な発電機やその動力、また電気部品の製作機など、その基盤となる最新の機械技術を習得することが先決であった。明治20年代の日本で、電気といえば、まず照明電球用のエネルギーを意味したが、この電気の普及には、発電機とその動力源を揃えることが急務だったのである。三吉らは、大は水力発電から、小さなものは石油発動機まで、発電機とその動力源を模索する中で、石油機関の将来性を逸早く見抜いていたと思われる。
同じ時期のフランスやドイツでは、馬車にエンジンを取り付け、自動車を開発することによってガソリン機関が急速に発達しつつあったが、後進国の日本では、エンジン付きの交通機関を走らせることは、まだSFに近いような話であった。それよりも手近な可搬式発電機の動力として活用するほうが現実的であったろう。ただし、十文字がH&Wを前にして主張したように、『このガソリン機関を発展させ、人力車や馬車に応用することは容易だろうし、もしこれを安価に国産化して普及させれば、交通運輸界の面目を刷新する日が来る』(1896・明29年1月22日付毎日新聞)という進歩的な思想も、極く一部ではあるが芽生えていた。その先見は、三吉ら、明治第2世代の先駆的技術たちによって認識されていたのではないだろうか。
日本最大の電機工場といわれた三吉正一の三吉電機工場は、明治31年、日清戦争後の反動不況により負債を抱えこみ、姿を消す。そしてこれを買収して設立されたのが日本電機合資会社(現在の日本電気M)であった。その後三吉は第1線から退いたが、彼の弟子たちは、その後も電機業界のパイオニアとして活躍していく。
よく明治の産業界は、重工業に偏重しすぎたといわれる。重工業は、いわゆる政商と呼ばれる財閥と明治政府の保護のもとに急成長するが、軽工業、つまり電気機械をはじめとする機械工業は、財閥からの捨て子といわれたほど、軽視され、立ち後れてしまう。成立期の機械工業とは、それほど技術的に困難で、割りの合わない分野と目されていたのである。
その結果、さらに20年後、明治末期に次の世代がガソリンエンジンやオートバイ・自動車の国産化を遂行する時も、この分野に挑むのは、小さな工場で活躍する技術者や、民間の企業家達ばかり、というきびしい状況が継承されていく。またその技術的な基盤は、田中工場に代表されるような、在来技術を背景とした非常に意欲的な一部の冒険者達によって築かれていく。
明治20年代には、三吉や十文字のような先覚者がいたからこそ、機敏に、しかも日本人自身の手によってH&Wの試走が実現していた。石油発動自転車試運転は、進取自尊の気象に溢れた明治中期ならでは起こった隠れた事件だったのである。
- 文献1「農事雑報」十文字商会・農事雑報社発行
明治31年〜42年
文献2「十文字大元伝」同伝記編纂委員会編・発行
大正15年
文献3「明治工業史」日本工業会編・発行
昭和5年
文献4「日本産業百年史」日本経済新聞社編・発行
昭和54年
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- ●写真解説
写真1:十文字信介(1852-1908)
写真2・「空中旅行の電気自転車」(1890・明23年2月27日付
郵便報知新聞)。自転車に動力を搭載する発想として、アメリカの新聞記事を引用して紹介したもの。まだガソリンエンジンは登場しておらず、電気モーターと外部電源を利用している。SF的な構想ではあるが、H&W試走の6年前に、動力付自転車をイメージする記事が登場したことは興味深い。
写真3・「馬車廃止の時代」(1896・明29年1月1日付
時事新報)。H&W試走の直前に、このような新聞記事が登場している。無論海外情報ではあるが、挿絵入りで大きく紹介したところをみると、日本人の間にも新発明の乗り物に対する興味が芽生え始めたことを示している。蒸気とガソリンを使った3〜4輪車、またプロペラ(と電気?)を使った自転車が紹介されている。→Zoom
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写真4・三吉正一(1853-1906)
写真5・Title Photo
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●脚注
1)大元の妻が創立した十文字学園は、現在も私立中学・高校(東京豊島区)、及び短大(埼玉県新座市)として続いている。
2)のちに実用自動車製造M(久保田鉄工所の分身)製ゴルハム式3輪自動車(1919年)の原型となった「クシカー」のオーナーでもある。生年不祥・1924没。
3)1825-1886、陸軍小将、銃砲研究家。明治13年に元込単銃を考案、これが国産初の正式軍銃「村田銃」となった。
4)十文字商会は弟大元との共同経営だったが、信介は猟具販売所として、明治25年より同じ神田須田町に「猟具館」を開いていた。
Title Photo
(写真5):「一人乗の汽車と馬いらずの馬車」(1896・明29年1月23日付
日本新聞)挿し絵。H&W試運転を報道した東京の新聞各紙は、その直後から時おりこのような新発明の「馬なし馬車」、つまり自動車を紹介するようになる。ここでいう「一人乗りの汽車」とは、十文字のH&Wのことを指している。→Zoom
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edition"(Yaesu Publishing Co.)1992-1994
- Last Updated 7th July 1995
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