日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第2節 石油発動自転車試運転


2.2.1 東京に現れたヒルデブラント&ヴォルフミューラー
2.2.2 世まだ一人乗りの汽車を見ず
2.2.3 皇居前での試運転
2.2.4 試運転のコース

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2.2.1 東京に現れたヒルデブラント&ヴォルフミューラー

 1896(明29)年1月7日付け中央新聞により日本到着が報じられた「一時間六十哩{マイル}の自転車」は、続く1月19日付けの同新聞紙上に、表題の挿し絵入りで再度紹介された。

●1896(明29)年1月19日(日)付 中央新聞 2頁
『一時間六十哩の自転車試運転
 屡々{しばしば}記せし石油発動機自転車は、今十九日午後一時、東京ホテル前より乗り初め、川岸より西方和田倉門前を廻り、二重橋東へ出で、緩急各種の運転を行なひつヽ衆覧に供す。』(句読点、{ルビ}筆者。以下引用文同)

 絵に明らかなとおり、十文字信介が輸入した「一時間六十哩の自転車」とは、1894(明27)年にドイツで誕生したヒルデブラント&ヴォルフミューラー(以下H&W)であった。この記事に描かれた挿し絵は、1895(明28)年のH&Wのカタログに所載された絵(写真2)を模写したものと思われる。
 H&Wとは、オートバイ史上初めて複数台が生産され、販売が行なわれた量産車であった。またモトラット(独Motorrad1))という名称を初めて使用し、モーターサイクル、すなわちエンジン付自転車の概念を明確にした最初の発明品でもあった。つまり、H&Wより以前に生まれた一連のパイオニアマシンは、ペローの蒸気ベロシペード2)(1869年)から、ダイムラーのガソリンエンジン付2輪車3)(1885年)に至るまで、すべて特許取得を目的として単品製作された試作車にすぎなかった。そして'Motorrad'(独モトラット)や、'Motorcycle'(英モーターサイクル、仏モトシクル)といった統一的な呼称も、H&Wの前には、まだ発生していなかったのである。
 H&Wは、その名のとおり発明家ウィルヘルム・ヒルデブラントと、技師アロイス・ヴォルフミューラー両名のドイツ人によって開発され、事業化が行なわれたガソリンエンジン付の2輪車であった。1894(明27)年1月から1895(明28)8月頃までに、約300台が製作販売されたと推測される4)
 オートバイ史上、ダイムラーに準ずる多大な功績を残したこのH&Wの詳細については本編で追って後述することにして、ここではまず極東に渡り、東京の土の上を走った「史上初のモトラット」の顛末を追ってみたい。
 表題の中央新聞の記事で、史実を決定的づける最も重要な点はH&Wを描いたその挿し絵だが、次に注目すべきは、皇居前においてH&Wの試運転が公開されるとの、有力新聞が記した予告文であろう。
 同様に、東京の新聞、「報知」、「朝野」、「都」、「日本」の各紙も、当日の試運転を以下のように急告している。

●1896(明29)年1月19日(日)付 報知新聞 5頁
『石油発動機自転車試運転
 昨年独逸で発明せられたる石油発動機自転車は、極少量の石油を用ひ円筒内の空気を熱し一種の促進機を働かして一時間六十哩を疾走するものの由にて、十文字信介は曩《まさ》に之を購入し数度試運転を成したりしが、本日午後一時より、東京ホテル前より乗り初め、川岸より西方和田倉橋へ走らし、坂下門前を廻り二重橋東へ出で、緩急各種の運転を行なひつヽ衆覧に供する由。』(同日付け朝野新聞3頁、および日本新聞5頁の記事もこれと同文。都新聞3頁はこれを略記)

 この記事によると、十文字信介は正月早々に到着したH&Wに対しあらかじめ数回の試運転を行なっていたが、1月19日の日曜日には東京ホテルから皇居前にかけて公開試運転を実施するとしている。そして予定時間と走行コースが明確に告げられている。
 初めて新聞紙上で報じられた際、H&Wはとりあえず「一時間六十哩の自転車」と呼ばれたが、2度目に紹介されたこの記事では「石油発動機自転車」と名付けられている。石油発動機自転車とは、英語でいうところの「ペトローレアム・モーター・バイシクル」を、十文字か周囲の誰かが翻訳したものであろう。前述したように、現在も使用される「石油発動機」とは、弟の十文字大元が翻訳して名付け、最初に販売していた。その「石油発動機」と、当時すでに定着していた「自転車」の語をつなぎ合わせ、「石油発動機自転車」としたと考えられる。
 
2.2.2 世まだ一人乗りの汽車を見ず

 試運転は予定どおり、1月19日(日)に皇居前で敢行されていた。その様子を日本新聞は2日後に、以下のような記事で報じている。この時点から、H&Wは「石油発動自転車」という呼称に改められ、各紙に定着する。また新奇な発明品を一般の読者にも理解できるように、「ひとり乗りの汽車」にも準えて表現している。以下の「一寸法師」なる記者の筆による一文は、当時の日本人がH&Wを理解し、評価した客観的な記述として、非常に高い見識が示されている。

●1896(明29)年1月21日(火)付 日本新聞 5頁
『一人乗りの汽車
 世まだ一人乗りの汽車を見ず。唯《た》だ石油発動自転車は、較々《こうこう》之れに近きものならんか。石油発動自転車は、昨年四月独逸ミンヘン市の発明にして、石油発動機と共に、十文字信介の手に依りて、這回、本邦に舶来したるものなり。
 其の構造は二輪にして、普通の空気入りタイア付自転車と略ぼ相同じ。唯だ彼《自転車》は、足の力を以て之れを運転し、此《石油発動自転車》は足を労せず一種の気体を変じたる、石油の猛烈なる燃焼に依りて運転するものなり。故に何人も無雑作に乗り得るのみならず、速力は、右把手《右ハンドル》の左にある整速子《スロットルレバー》を以て容易に加減することを得るものなれば、緩急進止意の如くならざるなし。要するに、石油発動自転車は、普通自転車の最も発達したるものと見て可ならんか
 一昨十九日十文字は、知人五六十名を東京ホテルに会し、技手丹野利三郎をして試運転を行なわしむ。場所は、日比谷御門内東京ホテルより乗り初め、御堀端を西方和田倉橋に走らしめ、更に和田倉御門より阪下御門前を回りて、二重橋の東に出づることとなし。或は疾駆、或は緩行、又た或は普通の自転車と競走を試みるなど、十数回に及べり。此日、通行人の障礙《しょうがい》ありたるが為め、全速力を用いるに至らざりしも、其の矢の如き疾駆には、人皆舌を巻いて驚けり。
 発明者曰はく、石油発動自転車は一時間六十哩(此の間に要する石油約3合)の大速力を有す、と技手曰く。当日の試験場には、道路の障礙を避けんが為め、僅かに三分一の速力を出したるのみと。此言に偽なくんば六十哩は暫《しばら》く之れを措《お》き、一時間四十哩の速力を有することは疑を容れず。一時間四十哩の速力は、僅かに是、米国大陸鉄道に見るべく、我鉄道に比しては、殆んど二倍の速力なるべし。去れば之れを一人乗りの汽車と称すれば、石油発動自転車の方には、却て損の行く話なり。
 当日の試験に徴するに石油発動自転車は、独り急行に堪能なるのみならず、腕車《わんしゃ=人力車》、又は馬車と同様の緩行も又却て難しとせず。然れ共、石油発動自転車を市内に使用して、腕車と伍《くみ》せしむる如きは、寧ろ、雛を割くに牛刀を用ゐる類のみ。軍事伝令、郵便駅伝及び常に警察、鉄道停車場に備へて急変に応ずるには、此機に企て及ぶもの蓋《けだ》し之れなからん。価五百金なりと云ふ。(一寸法師所記)』(《》内は筆者。以下同じ)

 世間はまだ、ひとり乗りの汽車を知らない、と始まるこのくだりは、なかなかの名文であり、このまま全文が、当時の雑誌「交通」同年1月25日号(第122号)にも転載されている。
 この記者はH&Wの走行を観察して、石油の猛烈な燃焼力によって動く乗り物と理解し、H&Wを脚力を必要としない、「自転車が最も進化したもの」と位置づけている。そして走行の様子を、矢のように速いと表現しながら、周囲の人々は皆そのスピードに驚嘆したと伝えている。
 ところでここで使われる「石油発動機」や、燃料の「石油」という呼び方には、少しまぎわらしい部分があろう。現在知られている石油発動機とは、軽油を燃料として回転する低速の発動機のことを指すが、ダイムラーやカール・ベンツが1880年代に開発したエンジンの燃料は、今で言うところのガソリンに近い揮発油であり、H&Wも同様に揮発油を燃料として、シリンダー内で圧縮し爆発させる4ストローク機関であった。したがって、十文字らが東京で走行させたH&Wに使われた燃料も、石油とは呼ぶものの、灯油や軽油ではなく、現在のガソリンに近いものだったと考えられる。
 それならば十文字はH&Wと同時にガソリンも輸入し、そのタンクに投入していたのであろうか? 確かにこの明治中期から20年以上も後の大正期にいたるまで、日本で使われた自動車やオートバイには、1ガロン缶に入ったシェルやエッソの輸入ガソリンが数多く用いられていた。また日本でも明治6年に洋式製油法が導入され、明治20年代には、灯油より引火性の高い揮発油が石油から精製され、早くも国産揮発油の生産が始まっていた5)。したがって十文字らが使用した燃料は、輸入揮発油か、あるいは当時国内でも入手可能だった国産揮発油の類だったと考えられる。いずれにしても十文字らは、車輌は到着しても燃料に何を使用してよいか分らぬ、といった幼稚な集団ではなかった。ただし当時の揮発油の品質は、現在のガソリンよりかなり悪く、いわゆるオクタン価は相当に低くかったと思われる。
 
2.2.3 皇居前での試運転

 十文字らの一行5、60人を連ね、技師丹野利三郎が操縦した1月19日の試運転の様子を最も克明に報道したのは、毎日新聞6)であった。2日間に渡って掲載された以下の記事には、皇居前での試運転をスケッチした(写真4)の挿し絵が挿入され、H&Wが走行する姿が明確に記録されている。

 この挿し絵からしても、H&Wはドイツで製作された原型のまま日本に渡って来ていたことはほぼ間違いない。着帽で脚半を巻いた丹野利三郎が乗車し、土煙を上げながら皇居の御堀端を走るH&Wの向こうには、こちらに向かって追いかけて来る2台の安全型自転車も描かれている。何れにしても十文字輸入のH&Wをとらえた写真はまだ発見されておらず、この一件を伝えた映像記録としては、筆者の知る限り現在のところここに挙げる(写真1)と(写真4)の挿し絵2枚のほかはない。
 毎日新聞の秀野なる記者の筆による、H&Wの機構解説を理解するために、(写真5)の構造図を参考にしながら、以下を読み進んで頂きたい。

●1896(明29)年1月21日(火)付 毎日新聞 5頁
『石油発動自転車試運転(上)
 一昨の日曜日、和田倉橋辺より東京ホテルの近傍一線、砥《といし》の如き大道に参々伍々《さんさんごご》相佇立《あいちょりつし》し、訝《あや》しげに左顧右眄《さこうべん》する幾多の老若男女を叱咤して数輌の自転車を快走せしむるを見たる者は、忽《たちま》ちにして万歳の呼聲《よびごえ》、御堀の閑鴎《かんおう》を驚すものあるを知りたらん。是れ石油発動自転車試運転なりやと知らずや。此の新奇なる自転車は、昨年四月独逸国ミュンヘン市のヒンデルブラント及オルフミルレル両氏により創製せられ、其製作の巧妙にして、其の使用の利便を極めたる、一時間能く六十哩を疾走するといふ。往日石油発動機を輸入して世の視聴を聳動《しょうどう》せしめたる等、機を看るに敏なる十文字信介が、率先して之を輸入し、公衆の面前に試験したるもの。
 一見するに其の形状は、普通の二輪自転車と大差あるなし。発動機関は腰掛けの下、足かけの間にあり。石油筒《ガソリンタンク》は把手の下方、前輪の上に斜懸し、小煖室《点火装置であるチューブイグニッション用の燃焼室》其の下にあり。円筒《シリンダー》に要する冷却水は、車輪の上部にあり、泥除けを兼用す。機関と相並べる二条のゴム束帯《バンド》一は、円筒前方と、その他は後輪に於けるクランクの両端に付し伸縮して、輪の回転を助けしむるなりという。其の運転の様は如何。
 其の回転を開始するには、先ず備付けいるアルコール点火器にて、煖室内の一部石油の通過する銅管を三分及至五分程熱したる後、石油筒と煖室との間に於ける導管のコックを開放すれば、石油は一種の気体と変じて猛烈なる燃焼をなすに至る。この火力は、煖室と円筒とに通ずる二個の砲金製の導管によりて円筒内の空気を強熱し、併せて油気を伝て膨張発動を起し
7)、ピストンとゴム束帯とをして伸縮の運動をなさしめ、以て車輪を回転するものなり。と雖《いえど》も、第一の行動は普通自転車に乗る時の如く、暫《しばら》く手にして押し出し、動勢を興しつつ進みながら乗車せざるべからざる。回転中一種奇怪の小音を発するは、円筒内の気体を排出するに出て、噴煙発臭等の事なきは、此の機に最も貴《たっと》う所たり。此の自転車の速力は、右把手の左にある整速子を以て容易に加減を得べし。即ち把手を握りたる侭《まま》、母指にて左方に之を旋転すれば、意の如く速力を加ふべく。之を右に旋転するや、亦《また》意の如く遅緩に転進せむるを得、進行を止むるにはブレーキを抑ゆると同時に、母指にてストップバルブ(停止弁)に通ずる安全器を押し下げ、之を安全段に懸くれば、数歩にて直ちに停止するを得るの装置なり。
 これ其運転方法の大要にして、他は大約普通自転車に乗るの心得を以てすれば易々《いい》たりといふ(秀野記)』

 上記文中で、記者は気筒内の燃焼爆発による排気音に気付き、更に噴煙や臭いが出ないことに驚いている。これは蒸気機関しか知らなかった当時の常識と比較して、ガソリンエンジンの利点を特筆したものであろう。この一節や、エンジンの押しがけが容易に行なわれた様子からしても、十文字らはそれなりの良質な揮発油を使用していたと考えられる。
 また翌日の記事では、十文字による石油発動自転車に対する極めて進歩的な見解が、以下のように展開されている。

●1896(明29)年1月22日(水)付 毎日新聞 2頁
『石油発動自転車試運転(下)
 実際の試験は、更に改めて二重橋前、緑樹の間にほのかなる、いとも畏《かしこ》き宮居を仰ぎつつ行なわれたり。猟具館の技手丹野氏、軽装して西方に向ひ、徐《おもむろ》に動勢を加えつつ数歩を進め、突如一躍して車上に跨る。勢《せい》、勢を生じ、動《どう》、動を加へ、右に曲折して芝の園生《そのう》を回走す。気、内に充ちて、輪、其の勢を増すや、急の又急、速の又速、空を劈《さ》り、風生じて疾駆する時、衣袂翩翻《いべいへんぱん》として背後になびき、小松の枝のまにまに忽《たちま》ち隠れ、忽ち顕《あら》はるるのさま、鳥の飛ぶが如としといはむか、人をして覚えず快哉《かいさい》を呼ばしめぬ。普通自転車の攻手数人、こころみに相競ふと雖《いえど》も、終《つい》に其の半にだも及ぶなし。一緩一急運転の自在と、進止の随意とを実験し、無上の好果を以て路人を驚嘆せしめ、其試験を終えぬ。
 数分時の後、東京ホテルの楼下《ろうか》、内外五六十の客を集へて、愛嬌と才弁とを以て説明する禿頭童顔《とくとうどうがん》の紳士は、猟具館主十文字信介なりけり。「新発明の利器、新発明の機関を率先輸入するは、家国を益する尠小《せんしょう》ならずと雖も、その率先者は須《すべからく》らく大決心を以て、一時の損失を意となさざるの覚悟を要す。資力饒《ゆた》かなるもの宜しく大いに奮はざるべからず」とは、氏が熱心の言葉なりき。而して氏は、更に進んで説明せり、「この自転車を率先輸入したるは我猟具館なれど、実地活用を企図したる最先者は、三吉正一氏なり」と。此の最も新に、最も巧なる機関をして、更に其一歩を進ましめ、人力車大、若くは馬車大に応用せしむるは極めて容易のとなるべく。而して利便と快味とは一層拡張せらるべし、とは満座の客が其思を一にしたるところなりき。
 「露国と何かが出来たむ時、斯の如き新利器を豊かに応用するを得べくむば、是豈《あ》に千古の快事にあらずや」とは、十文字氏が放胆語なれども、あながち一条の話柄《わへい・話の種》のみにあらじ。若し夫れ是を、邦人の手に製作し、更に安価を以て世に普及せしむるを得ば、所謂《いわゆる》伝令、警察、探訪、郵便等を益する広大なるべきは、云ふ迄もなく。其工案を一進して、其応用を広かしめむか、運輸交通界の面目を刷新するの日、期して待つべきなり。
 米国帰りの紳士は、前年これに類似せる機関を米国に視たりあると説かれぬ。兎も角も、これを実地に活用せしむるを得たるは、最近のとなるべく。而してこの好結果を以て本邦に実試せれたるは、固《もと》より、今回を以て破天荒をなす。
 試みに其原動機の石油消費幾何《いくばく》なりやと問ふ。「然り、仙台への往復に、大約三升あらば足らむ」と、これ一時の戯言《ぎげん》なるも、また以て其真相を見るべし。試に価を問ふ。「五百五十円」と十文字氏は答へぬ。要するに吾人は、無限の希望と、無上の快感とを以て、是を世に紹介するの労を喜ぶもの也(秀野記)』

 ここで注目されるのは、十文字は、「この最新の機関を使い、もう一歩発展させれば、人力車や馬車ほどの大きさの乗り物に応用できるであろう」と推測し、ガソリン機関を搭載した自動車の出現を予想している点であろう。
 そしてさらに驚くべきことに、「もしこれを日本人の手で製作して、安く販売し、普及することが出来れば、交通運輸の分野で大きな異変がおこるだろう」と、その普及から国産化までを提言している。まるでガソリン機関の発達によって引きおこる20世紀の交通革命を予言するかのような、非常に先進的な未来展望であった。

 この様に進歩的な発想を持つ日本人は、明治30年代から40年代にかけても中々現われず、またたとえ現われたとしても、世の中からは一向に受け入れられないという厳しい現実が、以後長年にわたって繰り返されていく。いやむしろ、大正末期に至るまでの以後30年間を通じても、欧米製の優れた自動車やオートバイのような製品は、日本人には永久に製造できないだろうとする声が大半を占めていたといっても過言ではない。
 H&Wを前に置き、このとき十文字信介が発した国産雄図の思想こそ、戦前期の国産オートバイ開拓者達によってくりひろげられる、死闘の端緒だったのである。
 
2.2.4 試運転のコース

 皇居外苑を走りぬけた、H&Wの走行経路を(写真6)に掲げる。これは1895(明28)年7月の東京郵便電信局による東京市街図(周辺の状況は日清戦争直後の明治29年1月の状況にもっとも近い)をもとに筆者が作成した。。

 試運転の拠点となった「東京ホテル」とは、現在の日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点にあった中堅どころのホテルであり、正確には今の日比谷公園前派出所の位置に建っていた。このホテルはH&W試運転の数年後、明治30年代初頭に、現在の晴海通りが埋立てられた際に取り壊されており、今はその面影はまったくない。しいていえば現在の日比谷公園内にある心字池の東側に残る旧日比谷見附石垣の石だけは、当時の東京ホテルに面していたものといわれる。
 十文字ら一行の試運転コースを、最も詳しく記録したのは、以下の中央新聞の記事であった。中央新聞本社は丸の内の現場近くにあり、またこの新聞が、前述のようにH&Wの日本到着を逸早く伝えた経緯からしても、その信憑性は高いものと考えれる。

●1896(明29)年1月21日(火)付 中央新聞 2頁
『新自転車の試運転
 石油発動機を輸入し、我が工業界に一進歩を与へたる十文字商会の尽力に依り、石油発動機を応用したる新自転車、新たに輸入せられ、一昨日午後、公衆の前に試運転を執行し、東京ホテルを本拠とし、馬場先、和田倉の間より日比谷を入り、内務大臣官舎前より衆議院前を経て、桜田御門までの間を乗回し後、宮城前の広場に於て、或いは緩に、或いは急に、自由自在に乗り回し、其の迅速なること汽車にも及ばず。府下に於て自転車乗の名人と云わるゝ印刷局の左近が一生懸命得意の術を施して競走したれど、五六間の間に後に瞠若たり。氏の説を聞くに、到底呼吸の切るゝ為め、追い駆くること能わずといふ。以て其いかに疾きかを察すべし。新自転車の全速力は一時間六十哩なれど、人馬通行の烈しきと、見物人の多数なりしとに依り、僅かに三分の一の速力に止めしは遺憾なりき。当日の乗手は十文字商会の技師丹野利三郎にて、疾走の間、余りに疾き為め、後ろに倒るゝを以て、始終俯しつゝありき。』

 この記事によると、十文字ら一行は東京ホテル前を出発し日比谷通りを北上して、いったん馬場先橋と和田倉橋の間まで進んでからH&Wを乗り出し、南に向って走行させたようだ。H&Wはそのまま、現在と同じ場所に広がる日比谷公園の周囲を時計回りにまわって走り、霞ケ関2丁目の交差点まで進み、桜田通りを北上して、桜田門から皇居前広場に進入し、二重橋前に到着した。
 一行はこの宮城前広場で、予告通り「緩急各種の運転」や、「普通自転車との競走など十数回に及ぶ試験」を実行していた。そして自転車術の名人として名高い中央新聞印刷局の「左近某」が、H&Wとの競走に挑んだが、とても追い付くことは不可能だったと記している。
 東京で走行したH&Wは、かくも駿足なりという強い印象を人々に与えたのである。


 
文献1 'Der Braunschweiger Hildebrand & Wolfmuller' Jan Spies 1988
文献2 「日本石油史」昭和33年 日本石油M発行
文献3 'Early Motor Cycles'Victor W.Page 1971


●写真解説

写真1Title Photo
 
写真2:1895(明28)年にドイツで発行されたH&Wカタログ所載の絵。
 
写真3:1895(明28)年1月発行のドイツの機関誌に掲載された市販型H&Wの写真。
 
写真4:1896(明29)年1月21日付毎日新聞『石油発動自転車試運転(上)』に描かれた皇居前試運転の様子。H&Wを操縦するのは丹野利三郎。
 
写真5:H&Wの構造を示す透視図。(文献3より転載)
 
写真6:1896(明29)年1月19日、H&W試運転走行経路。



●脚注
 
1)Motorrad='Motor'(エンジン)+'Rad'(自転車)、つまり英語でいうところの 'Motorcycle'にあたる呼称が、H&Wで初めて使用された。
H&Wは'Motor-Zweirad'(独モートル・ツヴァイラット)の名でも呼ばれたが、これは'Motor-Bicycle'(英モーターバイシクル)に相当する語である。イギリスでも20世紀初頭までは、モーターサイクルとモーターバイシクル、両方の呼称が使用されていた。ちなみに明治末期から昭和10年代にかけて、日本で最も多く用いられた「自動自転車」の呼称は、アメリカ的な呼び名であるところの'Auto-Bicycle'(オートバイシクル)を和訳したものである。
 
2)ペローは自らの蒸気エンジン付き2輪車を'Velocipede A Vapeur'(仏ヴェロシペーデ・ア・ヴァプール=蒸気ベロシペード)と名付けていた。
 
3)ダイムラーは、その特許(DRP36423)を、'Petoroleum Rad Wagen'(独ペトローレアム・ラドヴァーゲン)、つまり「石油車」とでもいうような名前を付けて申請した。
 
4)過去の文献、特に英語圏の史書ではしばしば、H&Wは数年間に1,500台以上が生産されたと伝えていたが、ドイツでの近年の研究(文献1)によると、その実数は約300台と推定している。またH&W社の活動期間も、1894年1月から翌1895年8月頃までの間と検証された。よって十文字が輸入した1896年1月の時点では、H&Wの生産は既に中止されていたことになる。
 
5)明治31年度には、新潟県下の油田だけで、1,458竏の国産揮発油が生産されていた。(文献2より)
 
6)日本最古の日刊新聞「横浜毎日新聞」(明治3年創刊)の後身。現在の毎日新聞は、当時まだ「東京日々新聞」と名乗っていた。
 
7)記者あるいは十文字は、燃焼室内での混合気の圧縮、爆発の行程を十分に理解していなかったようであり、この解説ではたぶんに蒸気機関的な表現がみられる。


Title Photo
(写真1)
:1896(明29)年1月19日付中央新聞『一時間六十哩の自転車試運転』。挿し絵にはH&Wが正確に描かれている。


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