日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第13節 日本に到着したトーマスタイプの自動自転車


2.13.1 パイオニア期米車スタイルの発端
2.13.2 柴義彦自動自転車組立の時期
2.13.3 ピアスモーターの怪
2.13.4 長崎に現れたピアス電気自転車?
2.13.5 カリフォルニア号到着
2.13.6 日露戦争前の位置づけ

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2.13.1 パイオニア期米車スタイルの発端

 本編ではこれまでに、1901(明34)年9月のトーマス号に続いて、1902(明35)年3月にミッチェル号が日本に到着したことを検証した。この両車はいずれも米国製であり、パイオニア期の米車の本流を形成した先駆であった。のちに米製オートバイの双璧として君臨したインディアンとハーレーダビッドソンの2車も、このトーマス型のオートバイの発展型として後発した、米国内数十社のメーカーのうちの一つだったのである。 
 前述のようにトーマス号は、二輪のオートバイとしてはH&Wに続いて2番目にわが国に渡来したものであった1)。そしてトーマスに続いては、ミッチェルや、広島の柴義彦が組み立てたものをはじめ、いくつかの非常に類似した米製オートバイが日本に到着している。これらはいずれも乾電池点火のド・ディオン・ブートン型軽量エンジンを、安全型自転車フレームにクリップオンしただけの、クラッチも持たない、まさに自動自転車と呼べる原始的な二輪であった。前節の柴義彦の手記にもあったように、駆動ベルトを外してしまえば自転車として乗ることも可能だったであろう。
 1900年から1903年にかけて、米国ではこの形式のパイオニア車が続々と登場したわけだが、なかでも先駆中の先駆といえる最古のモデルが、日本にも到着したトーマス号"Auto-Bi"型であった。米国では1920年代までにのべ200社以上に及ぶオートバイメーカーが出現したといわれるが、トーマス号はその端緒を開いた、米国オートバイ史上初の量産市販車だったのである。
 フレームには、フォーククラウンやステアリングヘッドの接合部を若干強化しただけの自転車からの流用品が使われ、そのため背の高い自動吸気バルブのエンジンは前傾して、ダウンチューブに平行に取り付けられていた。このレイアウトが5年ほどの間には、前傾エンジンから後傾エンジン2)へ、そして直立エンジンへと推移し、1905年頃には各社とも堅牢なオートバイ専用フレームを用意するようになる。また最初のトーマスの頃に200ccほどだった小さなエンジンも、1905年頃には500cc超級の単気筒に拡大され、やがて1910年頃には早くも900ccに及ぶ強力なVツインエンジンを抱える米車特有のスタイルが確立されていく。トーマスに端を発した1900年代の米車の急展開は、まさに米国流の変遷と呼べるものであり、同時期の仏車に見られる精巧な技法や、英車流の堅実な手法とは、明確に一線を画すことができる。
 またトーマスタイプのパイオニア車に見られる自転車フレーム多用の背景には、19世紀末における米国の自転車製造技術の熟成があったことも見逃すことはできない。1890年代後半の米製自転車フレームに使われたシームレス鋼管(引き抜き鋼管、つまり合わせ鋼管ではないパイプ)の製造技術は世界最高水準にあったといわれ、フレームの頑丈さでは、自転車技術の開祖であるフランスを中心とした西欧先進国をもしのぐほどの勢いであった。また米国の冶金技術、金属加工技術の発達の要因には、19世紀半ばの南北戦争などを経て、大量の銃砲火器が生産された歴史的な背景も潜在していた。アイバージョンソンやリーディングスタンダードといった、自転車生産からオートバイ生産に転向した初期の米車メーカーは、もともと銃器製造メーカーだったのである。
 現在の我々には馴染みの薄いトーマスタイプのパイオニア車も、このように考えてみれば、米国ならではの歴史背景と伝統から生まれた、米国流オートバイの端緒だったことが理解できよう。そして同時期の日本には、このトーマスタイプの米車ばかりが到着していた。
 
2.13.2 柴義彦自動自転車組立の時期

 ところで前節に登場した広島の柴義彦が撮影した2枚の写真の撮影時期、つまり柴が最初にオートバイを組み立てた時期については、残念ながら確かな記録が残されていなかった。昭和30年代にこの一件を調査した日本自動車工業史稿(文献1)では、その時期を1898(明31)年であると推定し、「わが国最初の二輪自動車組立」だったと位置づけていた。だがその史稿説には、大いに疑問があると言わざるをえない。
 結論から先に申し上げれば、拙論は、柴のオートバイ組立は1902(明35)年以降、またどんなに早くとも1901(明34)年の終わり頃に行われたものと認めている。
 なぜならば史稿の明治31年説の根拠となったのは、柴の回想録中の断片的な記述3)を拾ったものにすぎず、柴自身もこれを明治31年の出来事と明記はしていなかった。また第一に、この形状をもつトーマスタイプのオートバイが米国で生産され、販売が始まったのは、1900(明33)年以降のことであり、1898年という早い時期にこのような形状のモデルが生産された記録はどこにもない。そのうえこの車両が日本に渡り、使い込まれてからバラバラの中古品となって柴の手に渡るまで(前節参照)には、さらに年月を経ていたであろう。先述の神戸又新日報の記事「自動車・初めて神戸に舶来したる」(第6節・連載第12回参照)にも記されていたように、初めて神戸に自動自転車が到着したのは1901(明34)年のことであり、またマンチニが九州へ旅行したのは翌35年のことであった4)。また柴と共に広島でオートバイを組み立てた鳥飼繁三郎の回顧談(文献2)によると、鳥飼がオートバイを初めて目撃したのは明治34年のことであり、それは神戸市内でマンチニが操縦していたものだったという。これらの状況をふまえて判断すれば、明治31年という時期は、あまりに早すぎる設定というほかはない。
 前節に登場した写真「鳥飼自転車店前のオールズモビルと不明オートバイ」に写る4人乗りの四輪自動車は、金輪倶楽部競走会の一件(第11節・連載17回参照)にも登場したオールズモビル(米)カーブドダッシュ型である。これは広島の有志数名が共同出資して、東京銀座のモーター商会から購入したものであり、もとをただせば横浜のアベンハイムが輸入した自動車のうちの1台であった。柴ら広島の先覚者達は、東京で吉田眞太郎らが発行した雑誌「輪友」を精読しており、東京におこったモーター界の胎動にいち早く反応して、広島の地でもこれを走らせ、貸し自動車および乗合自動車として営業しようとしたのである。このオールズモビルを広島へ運び込み、柴らに運転を指導したのは、アベンハイムに雇われた最初の日本人運転手、林平太郎だったといわれる。柴らはオールズモビルを写真のように二人乗りから四人乗りへと強引に改装し、柴と鳥飼が運転手を務めるかたちで運行を試みたが、あまりに非力なエンジン(単気筒で5HPしかなかった)と当時の悪路に阻まれ、広島初の貸し自動車計画はあえなく頓挫してしまった。
 オールズモビルが日本へ最初に到着したのは、金輪倶楽部競走会(明治35年4月)の直前であったこと5)を考えれば、鳥飼自転車店前の写真は、少なくともそれ以降に撮影されたものであろう。以上のような背景から推察しても、柴義彦がトーマスタイプのオートバイを組み立てた時期は、明治35年以降だったということになる。
 余談だが、広島の乗合自動車計画は、さらに3年後の明治38年2月にも再度試みられている。この時使われた12人乗りの乗合自動車(写真4)こそ、双輪商会の吉田眞太郎が製作した、日本自動車史上に特筆される国産第1号ガソリン自動車(ただしエンジンは米国製)であった。吉田は広島に3カ月滞在し、この乗合自動車を運行させるために奮闘したが、これまたエンジンの非力と悪路、さらには地元の馬車屋による営業妨害や破壊工作にも会い、無惨な結末を迎える。車輌が未熟だったためと、タイヤの損壊(まだソリッドタイヤを使用していた)、そして何よりも時期尚早だったことが最大の敗因であった。
 また鳥飼繁三郎は明治40年に上京して、吉賀某と共同でケーエス自動車商会という自転車から自動車までを扱う店を有楽町1丁目に開業した。この鳥飼の店には、東京の先駆的モーターサイクリストが数多く出入りしていたといわれる。民間飛行家が登場しはじめる明治末期になると、鳥飼は飛行機修理にも手を出し、見せ物としての飛行会が流行ると、興行師に身を転じて全国を回り、大正2年には北海道で自ら操縦悍を握ってみせるが、見事に墜落して興業は大失敗、飛行界を追われる身となった。鳥飼は明治20年代のダルマ自転車の時代から、新種機械の渡来に乗じて次々と転身し、やがて日本航空史にも名をとどめた、じつに器用な男だったのである。技術者よりも業師のほうが活躍した明治期ならではの、時代の寵児だったともいえよう。
 このように広島の地からは柴や鳥飼のような先覚者が登場し、時代をリードする先進的な試みが展開されたわけだが、その背景には神戸のC・マンチニや、東京の吉田眞太郎、また横浜のアベンハイムらが、常に見え隠れしながら、絡み合っていたことも忘れてはならない。
 
2.13.3 ピアスモーターの怪

 前節の柴義彦が撮影した2枚の写真に写る2台のオートバイついて、読者はすでに前出のトーマス号あるいはミッチェル号に似ていると気付いたかもしれない。確かにその形状は、どれをとっても両車に酷似している。当時の米国の記録を調べてみても、この形状に該当するのは、有名メーカーのうちではトーマスかミッチェル、どちらかのパイオニアマシンしかないだろう。
 ただしこの2台は、いずれも神戸の橋本商会から購入した5台分のバラバラの中古品をもとに、柴、鳥飼の両氏が組み上げたものであり、そのため完全な原型をとどめていなかった可能性が高い。鳥飼自転車店前の写真に写るオートバイを(写真3)のように拡大し、トーマス(写真1)、ミッチェル(写真2)と並べて比較してみると、どちらかといえば(写真3)はミッチェルに近いように思える。
 1900年代初頭の米国では、トーマスやミッチェルによく似た、弱小メーカーのオートバイが数種販売されていた。つまりトーマスやミッチェルの模倣品が出回っていたわけである。また名も無い試作品のようなものが日本へ渡ってきた可能性をも考慮すれば、広島で組まれたこのオートバイを、無理にトーマス、ミッチェルのどちらかに結び付けることは危険であろう。拙論は、柴が組み立てたオートバイは、米国製の車名不明車だったと言及するにとどめたい。
 ただしここでどうしても無視できない、非常に疑惑に満ちた部分も一点残されている。(写真3)のオートバイに記されたタンクマークについてである。これを拡大して見ると、タンクの横には、明らかにピアス・モーター(PIERCE MOTOR)と書かれている。ピアスとは、当時横浜の石川商会が輸入元となって全国規模で大々的に販売していた米国製のピアス自転車のことであろう。一本の矢が描かれたそのマークも、ピアス号自転車のエンブレムと同じものである。
 ところが米国のピアス社がオートバイ製造に参入するのは6年後の1908(明41)年からであり、この時期にピアスがこのようなオートバイを製作したという記録は、米本国にも残ってはいない。結局のところ、これは「誰かが」ピアス自転車の宣伝のために、手書きで書き上げた、即席のマークだった可能性が高いのではないだろうか。鳥飼自転車店前の写真の左側には、1台のシャフトドライブの自転車が写っているが(前節、写真1参照)、これもピアス製自転車と思われる。
 
2.13.4 長崎に現れたピアス電気自転車?

 そしてこのピアスモーターの謎については、もう一件別の不可解な記録も残されている。石川商会が1902(明35)年3月に輸入したミッチェルは、米人の自転車曲乗り師ウィリアム・C・ヴォーンが、全国巡業に使用したと伝える新聞記事があったことは前述した6)。ヴォーンは明治35年の3月から4月にかけて、京都、大阪を経て九州地方にまで足をのばし、全国巡遊の旅を続けたが、その様子は各地の地方新聞に記されている。彼の足どりを追っていくと、長崎にまで至るのだが、当時長崎で発行された新聞には、ヴォーンがピアス社製なる自動自転車とおぼしきものを、曲乗りの舞台で披露した様子が描写されている。以下はその抜粋である。

●明治35年4月26日付「東洋日の出新聞」
ボーンの曲乗り
(中略)ヴォーン氏は紹介されて場に現はれ、今回乗り来たれる電気自転車に乗りて花道より舞台に駆け来たり、二三回周回してその乗り具合を示したりしが、同車は有名なる米国の自転車製造所なるピアース社の製造にして極めて新式のものなり。今その構造を略記せんに、全体の構造は普通のものに異ならず、ただサドル下方フレームの内に原動たる瓦斯及び電気を起こす機械等備え付けありて中々込み入りたる構造なりき。又之を走らす時は、恰も汽関車、若しくは蒸気機関の如くドッドッたる響きを発す。唯装置が小なるだけ、其響きも小なるの差あるのみ。是等の装置ある為め重量は甚だ重く、強からぬ記者杯の力にては引き上ぐる事能はざりき。
(後略・句読点筆者)』

 記事中の「電気自転車」というくだりは明らかに記者の誤認であり、後半の文面からしても、ヴォーンが舞台で披露したのはガソリンエンジン付きのオートバイだったに違いない。またこの時期に九州地方へオートバイが到来したのは、おそらくこれが最初か、あるいは2番目だったのではなかろうか。これ以前に九州地方へオートバイで乗り込めたモーターサイクリストの先駆といえば、おそらく神戸のC・マンチニくらいであろう。それにしてもヴォーンの曲乗りの人気はすさまじく、各地で大歓迎されたのだが、同新聞記事は3日連続でその妙技を絶賛したにもかかわらず、新発明のオートバイの出現については、上記の数行で軽く触れたのみであった。当時、東京の歌舞伎座で皇太子殿下に曲乗りを披露した名手ヴォーン、というふれこみは、各地で絶大なる宣伝効果を発揮したのである。
 ところでヴォーンがこのような極めて早い時期に巡業に携行し得たオートバイといえば、横浜の石川商会が前月に輸入し、ヴォーンに乗用させたミッチェルという線が最も濃厚であろう。当時の日本にはどんなに多く見積もっても、まだ両手で数えきれるほどのオートバイしか到着していなかったはずである。ヴォーンの全国巡業のスポンサーは、前述のとおり石川商会であり、その実態はピアス号自転車の宣伝キャラバンのようなものであった。
 石川商会の宣伝活動のために誰かの手によってマークが改名されたパイオニアマシンが曲乗りの出し物として使われ、さらにヴォーンによって乗りつぶされたそのマシンが、神戸の橋本商会の手を経て、広島の鳥飼自転車店前の写真におさまっていたというストーリーは、あまりにイージーな憶測かもしれない。しかし当時の時代背景には、そんな非常識な展開を飲み込んでしまうほど、破天荒な一面もあったこともまた否めない。明治30年代半ばの、ちょうどこの時期の日本では、有名自転車のニセ物が市場に出回っていた。安い輸入部品を国内で組み上げ、高級自転車のエンブレムだけを付けた自転車が横行していたのである。なかでもピアス号の偽造品は最も大量に作られており、訴訟沙汰に至ったトラブルも少なくない。この偽造事件に関しては、石川商会は最大の被害者であった。
 
2.13.5 カリフォルニア号到着

 さて少し余談に走りすぎてしまった。ここで本題に話を戻そう。
 トーマス号、ミッチェル号に続いて、日本に輸入された確実な記録が残されているのがカリフォルニア号(写真6)である。これもトーマスタイプの一つとして分類できる米国製のパイオニア車であった。カリフォルニア号の到着を伝えたのは、雑誌「輪友」明治35年4月(3月25日発売)号に掲載された以下の記事であり、その時期は石川商会のミッチェル号輸入からひと月も経過していない。

カリフォルニア自動二輪車
昨秋上野池畔の競走会
7)に自動二輪車顕はれしより、都鄙の輪友は等しく爰に注目して其改良と価格の下落を待つものの如し。「トーマス」式に次いで「ミッチェル」式来たり、又「オリエント」式8)顕はるるも皆其機械の装置複雑にして種種の不便あり。爰に「カリフォルニア」自動二輪車顕はる。(後略)』

 これは米国でも新型として登場したばかりのカリフォルニア号について、紹介を試みた記事であり、(写真7)も同号に掲載されていた。また同号には(写真8)のように「カリフォルニア動力会社」自身の名目でカリフォルニア号の広告も掲載された。これは外国のオートバイメーカーが直接日本の刊行物に掲載した広告としては最古の記録かもしれない。
 ただし上記の記事だけでは、この時点ですでにカリフォルニア号が本当に到着していたかどうか定かでない。ただ「輪友」は非常に学究的な正統派雑誌であり、当時の自転車、自動車関係の刊行物中では最も権威ある内容を誇っていた。したがって「輪友」が全く架空の話を掲載したとは考えられず、この時カリフォルニア号到着の、何らかの兆候があったことは確かであろう。
 そしてカリフォルニア号を国内で撮影した(写真9)(Title Photo)も存在している。ここに写るオートバイは、明らかにカリフォルニア号である。(写真6)と比較すると、フロントフォークのボトムリンク式緩衝装置などに若干の相違がみられるが、米国ではこのモデルも1902年式として製作されていた。(写真9)は極めて原型に近い状態であり、到着から間もない時期に撮影されたと思われる。明治35年頃にカリフォルニア号が日本に到着していたことは、確かと考えてよいだろう。
 (写真9)に写る学生服の青年は、若き日の芳賀五郎である。芳賀五郎とは、陸軍所管の電機工場の技師を経て、明治39年に、当時東京随一の自動車工場だった双輪商会自動車部に入社した人物である。しかし吉田眞太郎との意見の相違からまもなく解雇され、のちに自動車の分野で設計者として活躍した。芳賀は明治期から東京では知られた先駆的モーターサイクリストの一人であり、彼が常にオートバイを愛用し、東京市内を飛ばしていた様子は、多くの人々によって語り継がれている。
 カリフォルニア号の最大の特徴はそのエンジンにあり、アウターフライホィール式を採用した先駆車であった。この方式の採用により、エンジンは極めてコンパクトで幅が狭く、耐久性においてもトーマス号をしのいでいたといわれる。この時期のオートバイは日進月歩で進化していたのである。ただし基本的なレイアウトは、まだトーマスを踏襲するものであった。
 また翌明治36年には、オリエント号(二輪型。これについては後節で検証する)が到着しているが、これもトーマスタイプの米製パイオニア車の一つとして数え上げることができる。
 
2.13.6 日露戦争前の位置づけ

 以上のように20世紀が幕を開けた明治34年からの3年間には、トーマス号を嚆矢として米国製のパイオニア車ばかりが到着していた。これは特筆すべき傾向だったといえよう。
 世界のオートバイ史の上でも、この時代はまだパイオニア期、つまり草創期の渦中にあったが、その中で米製のオートバイばかりが特に進化し、最も多く生産されていたというわけでは決してない。この時期にオートバイ技術の最先進国を誇ったのはフランスであり、それを追って英独が独自の進化を見せ、西欧諸国がしのぎを削っていたのが、1900年代前半の情勢であった。大西洋を隔てた米国は、一歩後ろから西欧諸国の開発競争を追いかけていたといってもよいだろう。
 そんな状況の中で遠く離れた極東の地には米車ばかりが輸入されたわけだが、その理由は当時の日本の自転車界に見いだすことができる。明治30年代前半の自転車ブームの中で、圧倒的に多く輸入されたのは米国製自転車であった。東京の双輪商会や石川商会、大阪の角商会などがこぞって米製自転車を輸入し、これが流行し良く売れたことは前述のとおりだが、彼ら有力な自転車商がその余力を使って自動自転車の輸入を試みたのが、この時期だったのである。まず最初にオートバイを輸入したのは、ブルウル兄弟商会やアンドリュー・ジョージ合資会社など、横浜神戸の外人商館ではあったが、その販売については国内の大自転車商達の手に委ねていた。この時代は、大自転車商によるオートバイ試験輸入期だったといえよう。
 1904(明37)年になると日露戦争(1904-1905)が勃発し、日本は国運を賭けた総力戦に突入する。当然のことながら嗜好品である自転車の輸入は激減し、やっと芽生え始めたモーターの気運もここで一気に途絶えてしまう。パイオニア期のオートバイ輸入も、完全に中断されてしまった。オートバイの輸入が再開され、もう一段進化した欧米のオートバイが東京などに再び出現するのは、日露戦の疲弊から立ち直り、景気が回復する明治40年代のことであった。
 過去に記された日本オートバイ史の上では、明治30年代の状況が全く謎に包まれていた。だがこの時代の大きな出来事は、トーマス号到着から日露戦争勃発までの3、4年間に集約できるといってもよい。そしてこの時期には、トーマスタイプの米製パイオニア車ばかりが到着していたのである。


 
文献1「日本自動車工業史稿」昭和40年10月 (社)日本自動車工業会発行
文献2「鳥飼繁三郎君の思い出」雑誌「自動車之日本」昭和2年6月号掲載


●写真解説

写真1:1900年型トーマス号”Auto-Bi”型
 
写真2・1902年型ミッチェル号
 
写真3・広島鳥飼自転車店前の不明オートバイ
 
写真4・1905(明38)年2月、双輪商会製作国産第1号ガソリン自動車(柴義彦撮影)
 
写真5・長崎でのヴォーン曲乗り興行の広告、1901(明35)年4月22日付「東洋日の出新聞」より
 
写真6・1902年型カリフォルニア号
 
写真7・1902年型カリフォルニア号(雑誌「輪友」明治35年4月号所載)
 
写真8・「カリフォルニア動力会社」広告(雑誌「輪友」明治35年4月号所載)
 
写真9Title Photo



●脚注
 
1)現在までに筆者が発見したうち。
 
2)1902年のインディアン市販1号車のようにサドルポスト部にエンジンが配置されたスタイル。トーマスの1902年型やマーシュなども後傾エンジンに移行した。
 
3)これは柴の手記中、C・マンチニについて説明した「明治31年ころ神戸にあったアンドリュース商会のマンチニ氏が・・・・・」という書き出しの一節を、柴の組立時期に結びつけてしまったものと思われる。
 
4)柴は九州へ旅行途中のマンチニのオートバイを初めて見たのちに購入を思い立ったという。前節参照。
 
5)第11節・連載17回「各車の識別」参照。
 
6)第10節・連載16回「石川商会ミッチェル号輸入」の項参照。
 
7)1901(明34)年11月3日の双輪倶楽部秋季大競走会のこと、第8節連載14回参照。
 
8)このオリエントとは金輪倶楽部競走会に出場したクォードラィシクルの事と思われる。



Title Photo
(写真9)
:芳賀五郎(右)とカリフォルニア号


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Last Updated 7th July 1995