日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編



第10節 大自転車商によるオートバイ試験輸入


2.10.1 双輪商会の位置づけ
2.10.2 石川商会ミッチェル号輸入
2.10.3 金輪倶楽部不忍池競走会


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2.10.1 双輪商会の位置づけ

 東京京橋木挽町(現在の中央区銀座)の双輪商会は、自転車界の草分けとして、明治30年代に一時代を画した自転車商であった。トーマス号自動自転車が到着した年、1901(明34)年には、すでに全国各地に販売店網を広げ、また雑誌「輪友」(明治34年創刊・写真1)の後援者となり、日本の自転車文化の一翼を担うリーダーとしても輪界に君臨していた。
 だが相談役の吉田眞太郎や、代表を務める弟の吉田C二郎は、当時まだ20代の若さであり、自転車界の老舗とはうたわれたものの、その実体は、弱齢にして業を成し遂げた青年実業家と呼んだほうがふさわしい。
 そもそも吉田兄弟が自転車に遭遇したのは、彼等が入学した慶応義塾に在籍していた外人教授1)が、明治20年代に、当時まだ珍しい、ソリッドタイヤの安全型自転車に乗り、東京築地の居留地から三田の学舎まで通い始めたのを見て、憧れを抱いたのが最初であった。そこで吉田兄弟が、学友だった上流階級の二世連のために、横浜居留地の商館を通じて自転車を輸入したのがきっかけとなり、双輪商会が発足したといわれる2)。この双輪商会が設立された時期は1897(明30)年と伝えられるが、吉田兄弟の生年から追ってみると、その年吉田眞太郎は20才、弟のC二郎にいたっては、なんと18才ということになる。
 前述のように、吉田兄弟の自転車輸入業は、資産家の父親から資金援助を受けて始まったものであった。ただし若い吉田兄弟が自転車商として成功したのは、父の資力だけを背景としたものではない。むしろ彼等の事業は、明治20年代の終わりから30年代にかけて大都市の富裕階級におこった自転車の流行に乗じたからこそ成功し得たものといえよう。
 この自転車ブームは、新奇な舶来品を好む富裕階級名士が、いわば玩具として輸入自転車を購入して始まったものであった。そして自転車倶楽部の発足や、競走会の隆盛とともに各地に広がり、高価な自転車の需要が急増したのである。当時の自転車は、スポーティな紳士の高級な趣味として、庶民から羨望を集めるステイタスの座にあり、また自転車乗りならば必ずどこかの自転車倶楽部に所属すべきといった風潮も、妙に強く漂っていたといわれる。この自転車倶楽部の設立や自転車競走会、また遠乗り会などの活動においても、若き双輪商会は時代の先端をいくリーダーのような役割を果していた。つまり自転車の遊戯品としての流行期に、その中心にあって成功をおさめたのが、双輪商会だったのである。この遊戯品としての自転車流行期は、明治20年代の終わりから30年代全般にかけての時期にあたる。
 なかでも自転車競走会が絶頂期の隆盛をみせ、自転車倶楽部が最も乱立したのは、明治30年代半ばのことであった。表1は、当時東京で栄華を競い、しのぎを削った代表的な自転車倶楽部だが、このような倶楽部は、当時全国の地方都市にも無数に広がっていった。
 そして愛輪家の主役が大都市部の名士から地方の名士へと移り、中流階級の日本人が自転車を買い求めるようになると、その実用性が認められ、自転車は大衆化時代に入っていく。やがて着物の裾をまくり上げ、草履ばきで自転車に乗る、商店の出稚や小僧が現われたとき、紳士の高級な趣味としての自転車の性格は完全に失われていた。これは本来自転車に備っていた実用的な交通手段としての用途が認められたものであり、むしろ当然の成り行きであった。自転車が実用車としても購入されるようになり、大衆化が始まるのは、明治40年代のことである。この時期、双輪商会は、自転車の大衆化とともに衰退し始め、明治末期には廃業を迎える。この商会は、いわば自転車遊戯品時代の落とし子のような存在だったのである。
 当時の自転車輸入の統計をみると、表2のように、明治30年から着実に増加を続け、30年代の終わりには、飛躍的に上昇していることが分かる。この明治30年代末から明治40年代にかけて活躍し、頭角を現わしたのが、横浜の石川商会(現丸石自転車M・明32年自転車輸入開始)、東京の日米商会(現日米富士自転車M・明33年創業)やスイフト商会、神戸の橋本商会や野沢組、また大阪の角商会などであった。これらはいずれも双輪商会から少し遅れて、明治30年代前半に自転車輸入業を始めたものだが、双輪商会とは逆に、自転車の大衆化時代に乗じて成功をおさめ、やがて日本を代表する大自転車商に成長していく。
 吉田眞太郎は双輪商会の絶頂期に到着したトーマス号やグラディエートル号によってモーターに目覚め、その将来性を確信して4輪自動車の分野に転向し、しかも国産化まで試みたあげく資産を使い果たし、事業は失敗に終わる。吉田のこの急進的な足跡は、日本の先覚者として特筆すべきものであり、また他社に影響を与え、後継者を育成した意味でも、偉大な業績だったといわざるをえない。しかし上掲した後続の自転車商各社は、吉田の敗退とは裏腹に、輸入商として実力をつけた上で、やがてオートバイの輸入業でも成功し、大正、昭和期には、自転車の自社製造から、オートバイの国産化を手掛ける者も現われるまでに成長していく。
 
2.10.2 石川商会ミッチェル号輸入

 とくに横浜の石川商会は、早くから自転車に着目した日本人貿易商であった。明治30年代半ばには、双輪商会を凌ぐほどの勢力を築いていた。
 石川商会とは、もともと絹織物輸出商として、1894(明27)年に横浜で発足した貿易会社であった。自転車の輸入を始めたのは、明治32年といわれる。双輪商会が米国製高級自転車デイトン号の代理店として脚光を浴びていたのに対し、石川商会はそのライバル車ともいえる、同じ米国の高級車ピアス号を扱い、双輪商会と競り合いながら、全国に販売店網を開いていった。
 前述のように吉田眞太郎がトーマス号やグラディエートル号自動自転車を乗り回し、新式自転車の到来として自転車界にセンセーションを巻き起こしたのは、明治34年の秋のことだったが、トーマス号に続いて新種の自動自転車を日本に輸入し、走行させたのは、この石川商会であった。
 石川商会の自動自転車輸入については、双輪商会の吉田眞太郎に遅れまいとする、対抗意識があったことは想像に難くない。また元来貿易商として始まった石川商会にとっては、居留地の外国商館の手に頼ることなく、自らのルートで新式の自動自転車を輸入することも、不可能ではなかったろう。
 旧来より「日本に始めて出現したとおぼしきオートバイのうち、確かな記録が残っているもの」として、何度も取りざたされてきたのが、この石川商会が輸入したミッチェルであった。小型自動車発達史(文献2)では、ミッチェル号について次のように記述していた。
『確かな記録として残っているものは、明治36年米国製乾電池装置付ミッチェル・オートバイが2台輸入され、これが自転車商丸石商会の前身である石川商会から販売されたこと』

 この確かな記録というのが、何をさすものかは不明だが、石川商会の自動自転車輸入については、上記の過去の定説より1年早い、1902(明35)年の新聞記事によって、その到着が報じられている。ミッチェル号に関する新聞記事を最初に記したのは、下記の時事新報(写真2)であった。

●1902(明35)年3月7日付時事新報(6頁)
『横浜なる石川商会にては今般ミッチェル式自動車輸入したるよしなるが、同車は普通の2輪自転車に瓦斯発動機を据え付けたるものにて、馬力は2馬力半あり、全速力は1時間38哩を走り、而もマーローコースターブレーキ
3)の備えあれば危険の 慮 少しもなく、代価は1輌5百円なるよし』

 記事の文面からして、明治35年3月の時点では、すでにミッチェル号が到着していたと思われる。この時期はトーマス号オート・バイの到着から、6ヵ月遅れということなる。価格もトーマス号と同額の、500円としていた。
 また石川商会は、この新着の自動自転車をヴォーンという名の外人自転車曲乗師に乗用させて、宣伝活動に使っており、その様子も次の新聞記事に登場している。

●3月18日付萬朝報(3頁)
『曲乗りの米人ボーンは、今度横浜の石川商会に来たミッチェル式の自動自転車に乗り、関西の輪豪石井大三郎はボーン用のピアスに跨り、去る九日横浜を発し、函根(箱根)の険を越え、関西地方に向かいました、近来の快挙と思います』

 この記事からも、3月の時点で、すでにヴォーンがミッチェル号を乗り回していた様子がうかがえる。ただ予告通り、はたしてミッチェル号が関西まで辿りついたかどうかは疑わしい。とにかくミッチェル号で、遠くまで出かけようとしていたことは確かであろう。ヴォーンの遠征は、石川商会のピアス号自転車宣伝のための曲乗り巡業といえるもので、当時の記録には、箱根から先の巡業ではピアス曲乗り用自転車しか登場していない。たぶんミッチェル号は途中で故障してしまったのだろう。
 またミッチェル号とヴォーンを撮影した写真も1枚残されていた。右の(写真3)は筆者が発見し、文献3で発表したもの。おそらく石川商会か、あるいはヴォーンが、米国の関係者に送っていたものと思われる。これは横浜市尾上町の石川商会の前を走行中のヴォーンをとらえたもので、背景に写る門柱の看板には、「石川商会」の文字も読み取れる。
 1902年型のミッチェル号カタログからの原型は(写真4)のとおり。これと比べると石川商会前で撮影されたミッチェルは、サドル後ろの乾電池ケースの大きさや、ステアリングヘッドにくくり付けた箱(予備電池?)などに、少し相違点が見られる。だがほぼ原型どおりのものが日本に到着していたようだ。マフラー部のニッケルメッキもまだ光っており、輸入からさほど時を隔てずして撮影されたと思われる。
 ミッチェル号のカタログには、トーマスと同様のド・ディオン・ブートン型自動吸気バルブの、4ストローク、347ccエンジンを搭載し、23インチフレーム、車重55kgで、最高速は56km/hと記載されている。エンジンはトーマスの250cc(推定)よりもひと回り大きく、フレームはトーマスより1インチ小さかったことになる。1901年型トーマス号オート・バイのカタログ写真(本編第7節参照)と比較すると、両車のレイアウトは非常によく似ている。
 ところでヴォーンという外人については、「ミッチェルに乗り初めて不忍池の競走会でオートバイを走らせた」と、わが国の先達によって古くから伝説のように伝えられていた。はたして不忍池の競走会にヴォーンが現われたどうか、まだ確認できていないが、その可能性は十分にあったろう。ただこのヴォーンという人物は、自転車や自動車の分野でも、明治期の史上を賑わす、日本とはじつに縁の深い外人であった。
 ヴォーンとは、ウィリアム・C・ヴォーン (William C.Vaughn)という名のアメリカ人で、明治27〜28年頃に、横浜の商館アンドリュース・ジョージの社員として来日した。アンドリュース・ジョージ合名会社は当時居留地で最大規模の貿易商であり、明治20年代に自転車の輸入販売を企て、日本に自転車を広めるためにヴォーンを招いたといわれる。ヴォーンは米国自転車界第2位の競走選手だったと自称していた(文献4より)が、日本ではむしろ曲乗師としての実力のほうが評価された。
 ヴォーンが日本の自転車界で初めて名を轟かせたのは、明治33年8月に行なった自転車による初の富士登山であった。ヴォーンは勤務先のアンドリュース・ジョージが輸入したクリーブランド号に乗り、もうひとりの日本人、鶴田勝三4)はデイトン号に乗り、2台は富士の頂上まで到達した。もっとも自転車は、手で担いで登ったわけだが、富士山の頂で豪快に(?)自転車曲乗りをやってのけた冒険談は、自転車界の快挙として大いに話題を呼んだ。
 こののちヴォーンはアンドリュー・ジョージを退社し、自転車の曲乗師として各地で興行を開きながら巡業生活を送る。ヴォーンの曲乗りの人気に目をつけた石川商会は、彼に自社が輸入するピアス号を乗らせ、ヴォーンといえばピアス号というほどに、大々的な宣伝活動を行なった。おそらく石川商会はヴォーンのスポンサー的な存在だったのであろう。ヴォーンの曲乗りは百種以上のレパートリーで満場の観客をわかせたというが、実際に、歌舞伎座や春木座の舞台にも立ち、皇太子殿下の前で曲乗りを披露したこともあった。だが長い日本生活を身をおき、日本語も巧みになったヴォーンは、三味線を抱えて自転車に乗り、各地の芸者を侍らせて一緒にサノサやカッポレを弾きまくるといった荒技まで熟すようになり、やがて興行師に弄ばれ、スキャンダルから追い詰められる。
 ただしこのヴォーンという米国人は日本で浮き名ばかり流していたわけではなく、横浜でアンドリュー・ジョージの代理店や、自らアメリカンサイクル&オートモビルカンパニーという商会も開き、タイプライターなどの機械類から自転車、やがては自動車の輸入販売まで手掛けている。1903(明36)年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会では、アンドリュー・ジョージが輸入した米国製蒸気自動車(トレド)が、会場周辺を走り回り、非常な話題となったが、これを運転したのはヴォーンである。
 
2.10.3 金輪倶楽部不忍池競走会

 石川商会にミッチェル号が到着したと報じれれた翌月、明治35年4月5日には、上野公園不忍池で大規模な自転車競走会が開かれた。これは前述の双輪倶楽部秋季競走会(本編第8節参照)以来、5ヵ月ぶりに東京で開かれた、大きな自転車競走会であった。
 この金輪倶楽部主催の競走会でも、5ヵ月前の双輪倶楽部競走会に続いて新着のモーターが走行したとの記録が、断片的ながら残されていたが、はたしてどの様な自動自転車、あるいは自動車が走行したかは、今日まで謎のままであった。
 ところが平成4年になってから、自転車史研究家梶原利夫氏の調査により、当時の貴重な写真が発見され、参加車輌の全貌が映像で明らかになった。梶原氏のご好意により、ここに初めて紹介する。

 上の(写真6)がそれだが、ここには2輪と3輪と4輪の自動自転車が各1台ずつと、3台の4輪自動車、合計6台のモーターが映し出されている。このうちの3台の自動自転車は、いずれも双輪倶楽部の競走会で走った2輪と3輪のトーマス号、また4輪自動自転車は吉田眞太郎のグラディエートル号と非常によく似ている。
 ただし前述のように、この時すでに石川商会のミッチェル号も到着しており、この2輪がトーマス号かどうかについては疑問の余地がある。だが写真の形状から見るとトーマス号にやや近く、また右の石川商会の広告(写真5)にもあるように、この時期ヴォーンは関西から九州にかけて巡業中であり、少なくともヴォーンがこの写真に写っている可能性は低い。この2輪は、5ヵ月前の双輪倶楽部競走会で走ったものと同じトーマス号ではないだろうか。
 また右端に写る3輪の自動自転車も、その形状からして、5ヵ月前と同じトーマス・オート・トラィのように思える。
 そして4輪自動自転車については、吉田のグラディエートルの写真(前出の3枚)と比べると、前部の客座や、前輪の泥よけなどの形状が少し異なっている。また前節でふれたように、この時吉田のグラディエートルは修理中であった。さらにこの時期には、米国製のオリエントという名のガソリン車が2台到着しており、そのうちの1台は4輪自動自転車(クォードラィシクル)だったとする記録が発見されている(文献5)。この写真に写る4輪自動自転車は、グラディエートルよりも、どちらかといえばオリエントに似ていることからして、これはオリエントだった可能性が高い。
 他の3台の4輪自動車を含めて、それぞれの車名を推定してみると、左から順番に次のようになる。

  • 4輪自動車 ナイアガラ(蒸気))
    明治34年3月頃到着(本編第5節参照)。
  • 4輪自動車 オリエント(ガソリン)
    明治34年12月〜35年1月頃到着。1月26日にアベンハイムが乗り新橋−横浜間を59分で走破した。単気筒エンジンの米国製自動車。モデル名"Orient Runabout"。
  • 4輪自動自動車 オリエント(ガソリン)
    上記オリエントと同時に到着した米国製クォードライシクル。新橋−横浜間を一緒に 走破した。モデル名は"Orient Auto-Go"
  • 2輪自動自転車 トーマス(ガソリン)
    前年11月の競走会で須藤貞三郎が乗った、トーマス・オート・バイ"Thomas Auto-Bi"
  • 4輪自動車 オールズモビル(ガソリン)
    この競走会の直前に到着したと思われる、単気筒エンジンの米国製自動車。
    "Oldsmobile Curved Dash Runabout"
  • 3輪自動自転車 トーマス(ガソリン)
     前年11月の競走会でアベンハイムが乗った、トーマス・オート・トライ"Thomas Auto-Tri"

 以上の6台は、この時東京と横浜に到着していたモーターのほとんど全車を網羅している。そしてここに一堂に会した6台のモーターは、全てブルウル兄弟商会のアベンハイムが輸入したものであることが興味深い。
(後編に続く)



文献1「日米商店三十五年史」M日米商店編 昭和9年
文献2「小型自動車発達史」同書編纂委員会編 昭和43年9月 (社)日本自動車工業会発行
文献3「戦前国産オートバイの残像」岩立喜久雄(社)全国軽自動車協会連合会発行「軽自動車情報」1989年10月号
文献4「ボーンの由来」、「ボーンの曲乗り」1902(明35)年4月25,26,27日付「東洋日の出新聞」掲載
文献5「抄録明治の輸入車」佐々木烈 1993年4月3付「日刊自動車新聞」掲載


表1明治34年東京の主要自転車倶楽部
表2明治期の自転車輸入統計


●写真解説

写真1:雑誌「輪友」(明治34年創刊)
 
写真2・1902(明35)年3月7日付時事新報「ミッチェル式自動車」
 
写真3・石川商会前でミッチェル号に乗るヴォーン
 
写真4(Title Photo)
 
写真5・1902(明35)年4月13日付萬朝報(1頁)石川商会広告
 
写真6・1902(明35)年4月5日金輪倶楽部不忍池競走会自動車試運転の様子。左から、ナイアガラ、オリエント・ランナバウト、オリエント・クォードラィシクル、トーマス・オート・バイ、オールズモビル、トーマス・オート・トライの6台



●脚注
 
1)ジェームズ・サンマー
 
2)清水卓の(文献1)での言。清水卓とは、もと双輪商会の社員で、後に自転車雑誌「輪界」(明治38年創刊)の主幹、また自転車・オートバイ雑誌「輪業世界」(大正7年創刊)の主幹を務めた。
 
3)ペダルを逆転側に踏み込んで後輪にブレーキをかける装置。当時の新機軸として流行した。これはマーロー社(米)製コースターブレーキ付きの意。
 
4)鶴田勝三(1882-1959)とは、双輪商会吉田眞太郎の実弟。吉田3兄弟の末弟にあたる。この時18歳であった。学生ながら自転車競走選手として勇名をはせた最初期の日本人でもある。翌明治34年に米国エール大学へ留学、帰国後実業家として成功した。



Title Photo
(写真4)
:1902年、石川商会が輸入したミッチェル号(1902年型ミッチェル号カタログより)


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Last Updated 7th July 1995