日本自動車百年史 第2章 明治・二輪編

第1節 日本に初めて渡来したオートバイ


2.1.1 初輸入はいつか?
2.1.2 戦前期先達の記述にみる初輸入
2.1.3 1896(明治29)年1月 1時間60哩の自転車到着

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西欧で誕生したオートバイが、海を渡り極東の日本に到着し、初めてわが国の土の上を走行したのはいつのことだったのであろうか? またそのオートバイとは一体何であったろうか? 以下に示すは、90年以上も埋もれていた日本オートバイ史の幕開けを伝える史実である。

 
2.1.1 初輸入はいつか?

 前章ではガソリンエンジンで走行する最初の乗り物として誕生したダイムラーの2輪車にいたるまでの、黎明期の欧米オートバイ史の足跡と、明治中期までの日本の基礎的な産業技術発達の足跡を振り返ってみた。
 そこでもふれたようにオートバイとは、ドイツ、フランス、イギリスを中心とした西欧で発明されたものであった。西欧でオートバイが誕生する黎明期から普及や量産が為し遂げられるまでの草創期をわが国の時代に照らし合わせると、ちょうど近代日本の曙、明治時代にあてはまる。そしてこの時期のわが国は、技術的にも文化的にも、西欧のオートバイ史の歩みにはまったく関わりのない遠くかけ離れた後進国のひとかけらにすぎなかった。すなわち西欧に誕生したオートバイは、明治期に欧米先進国から伝わった近代的な発明品の数々と同様に、まだ見ぬ新奇な乗り物として日本に渡来し、われわれ日本人の眼前に突如出現していたことになる。
 わが国に初めてオートバイが渡来したのはいつのことだったのであろうか。日本に初めてオートバイが出現した時期については、過去に自動車史を研究した先達の調査により、戦前期からこれまでにいくつかの考証がなされてきた。ただしそれらは開拓者達の記憶にたよる証言や伝聞をもとに考察されたものであり、いずれも確かな史実に基づく検証ではなかったといえよう。にもかかわらず、現在までに綴られてきた戦前期の日本自動車史はいずれも、先達が調査した例証をもとに繰り返し再編され、しだいに定説化されてきたものである。
 ここでいま一度、過去の通説について振り返ってみたい。以下に掲げる4つの文献に登場する事物の年次や名称、とくに赤字の部分については、本編にて年代をおって再考証し、順次訂正していくこととする。したがってここではあくまでも不確かな旧説としてご解釈いただきたい。また三輪、四輪などの初輸入や、販売、使用の記録についても、同様に検証し、後述していく。

【1】「自動車日本史(上)」尾崎正久 昭和30年10月 自研社発行
 まず戦前期より数冊の日本自動車史をまとめあげた斯界の先覚者、尾崎正久が記したこの書は、オートバイの初輸入についてもふれ、以下のように言及している。

『わが国に二輪自動車が輸入されたのは、これまた三、四輪にややおくれて、明治35年横浜のアンドリュース、ブルーウェル兄弟商会1)等が見本車各1台(トーマスおよびオリエント)を輸入したが、これは商品というよりも、外人支配人が自用車として携行したものであったようだ。』

 つまりここでは、明治35(1902)年にはオートバイが渡来していた、と考察されている。

【2】「二輪自動車史話」中根良介 雑誌モーターファン(昭和30年8月〜昭和31年12月号 全17回連載) 三栄書房発行
 また同じく戦前期より自動車史を研究し、終戦後昭和20年代から30年代にかけて、4輪、3輪、2輪と分けて日本自動車史を考証した中根良介は、

『二輪自動車についてはハッキリわかっていない。』としながら、『ただ(明治)35年もしくは36年ごろであろうと推測されるだけである。この時期にプール兄弟商会が米国製トーマス自動車を輸入し、そのカタログには三輪および二輪の「トーマス」が記載されていたが、その実物を扱ったかどうかは明らかではない。』

としている。
 そして、明治36年(1903年)横浜のボーン商会が「ミッチェル」とよぶオートバイ2台を輸入、これを丸石商会が販売した。』のが、『最も確かな記録であろう』と記している。

【3】「日本自動車工業史稿」昭和40年10月 (社)日本自動車工業会発行
 この史稿とは、日本自動車工業会が明治期から太平洋戦争終戦までのわが国の自動車工業史を子細に調査し記録したもので、続いて上梓した第3巻までを合わせ1,500頁におよぶ日本自動車の集大成である。戦前期の日本自動車史を編纂したものとしては、過去最良の史書といえる。
 史稿ではオートバイを広義の自動車のひとつとして扱い、その初輸入についても調査し、『明治32年オートバイ出現』という1節を設けている。これによると、1899(明32)年と1900(明33)年に横浜の外人居留地山下町で自動二輪車を目撃したという大塚正三郎2)の証言を根拠として、

『自動二輪車がわが国に渡来したのは、四輪自動車より一年早い明治32年であったことは確実といってよい。』

としている。
 また近年(昭和40年当時)発見した史料として、広島市で最初にオートバイと自動車を使用した先駆者、柴義彦氏が昭和20年代に記した経歴書から、

『明治31年頃神戸にあったアンドリウス商会のC.マンチニ−氏が、商用で下関方面にオートバイ旅行するのをみて、一度乗ってみたいと思っていた』

との一文を引用し、『31年出現もあり得る』と補足した。
 つまり1899(明32)年、もしくは1898(明31)年には、オートバイが渡来していたろうと考証している。

【4】「小型自動車発達史」同書編纂委員会編 昭和43年9月 (社)日本自動車工業会発行
 これは日本小型自動車工業会(旧)と通産省が収集した資料をもとに昭和35年から編纂が行なわれ、日本自動車工業会によって前掲の史稿にひき続き刊行された調査記録である。明治期から昭和25年までのわが国のオートバイと三輪自動車および小型四輪自動車の発達の過程が、業界の開拓者諸氏の貴重な証言をもとに克明にまとめられている。現在までに編纂されたオートバイ史関係の史料としては最上の記録であり、いまだこの発達史を塗り替えるほどの組織だった調査は行なわれず、また改訂もなされていない。
 この発達史の第1章「オートバイの出現」、「輸入のはじめ」の項は、以下のように書き出している。

明治30年頃から同37年頃まで自動車を輸入販売していた東京銀座の松井民治3) 経営のモーター商会が横浜在住のエベリー・ハイム氏の輸入した蒸気自動車オリエント号と当時ブルー兄弟商会が輸入した米国製トーマス号を販売したという記録があるが、このモーター商会の型録には二輪、三輪、四輪の各トーマス自動車が載っていた。しかし輸入台数は僅か数台のことであり、果たして二輪車が実際に輸入されたかどうかは明らかではない。
 更に明治32年東京日本橋の飯塚商店でソリッドタイヤの蒸気機関付オートバイを購入、所有していたと言われるが、これもまた明らかなことではない。
 確かな記録として、残っているものは、
明治36年米国製乾電池装置付ミッチェル・オートバイが2台輸入され、これが自転車商丸石商会の前身である石川商会から販売されたことと、仙台市大町の福田福松が横浜のシトロン商会を通じて1台のオートバイを輸入したという2つの記録があり、これが日本に於ける初期オートバイの先駆をなすものであろうか。』

 そして巻末付録の「小型自動車発達史年表」二輪車の項の冒頭は、以下のように記されている。

  • 1897 明治30年 横浜在住の一外人エバリーハイムがオリエント蒸気自動車を輸入

  • 1899 明治32年 飯塚商店(東京)ソリッドタイヤの蒸気機関付二輪車輸入

  • 1903 明治36年 米国製乾電池装置付ミッチェル号を石川商会が2台販売

  • 1907 明治40年 トライアンプ4)モーターサイクルを石川商会輸入販売

 部分的に【2】の「二輪自動車史話」と重複じているが、わが国で戦前期のオートバイ界が組織的に調査されたのは上記「小型自動車発達史」が初めてのことであり、信憑性は最も高い部類に属すといえよう。

 以上、戦後に記された代表的な4つの文献から、オートバイ初輸入に関する記述を列挙してみた。これらを整理すると、1898(明30)年から1902(明34)年までの事項は、いずれも伝聞か、当時健在だった先駆者達の証言にもとづくものであり、一部には憶説とも呼べる事項が含まれていた様子がうかがえる。結局のところ、確かな記録としては1903(明36)年に輸入された米国製オートバイ、ミッチェルが最初ではないか、と考えられていた。
 
2.1.2 戦前期先達の記述にみる初輸入

 上掲した4つの文献はいずれも戦後に記されたもので、多くは生き証人となった明治初期、中期生れの先駆者達が、戦後に回顧した証言をよりどころにしている。ただし【3】の「日本自動車工業史稿」だけは、戦前期に先人が書き残した資料についても広範な調査を行なっており、これは別格の史書として位置づけることができよう。
 この史稿の巻末に記載された参考文献をひとつずつ検証してみると、膨大な史料の中に埋もれて、戦前期に記されたオートバイ初輸入に関する手がかりを発見することができる。以下は1919(大8)年の雑誌「自動車」5)に掲載された、自動車業界先駆者の回顧録である。オートバイの出現に関する興味深い証言が含まれているので、引用してみたい。

【5】「日本自動車の沿革史」 伊東太郎談 自動車1919(大8)年1月号所載

『[自動車の先駆は自動自転車]
日本の自動車の起源を説くには先ず自動自転車から説かなければならぬ。たしか明治41年と覚えているがあるいはその前年かも知れない。横浜に西洋人が招来したもので、自動自転車が2、3台あった。その以前、自転車の最盛期に非常に手広く自転車を扱った双輪商会の主人が1台輸入して、不忍の池畔
6)を飛ばした事がある。それと前後して銀座の十字屋の主人の十文字大元氏であったか信介氏であったか、兎に角二人のうちであるが、これが米国から帰朝する時に1輌持って帰った事があるのである。』

 この談話の主である伊東太郎氏は、伊東巳代治伯爵(1857-1934)の長男で、大正8年当時は宮内省調度寮庶務課長、のちに車馬課長となって皇室御料車の改造にもあたった自動車通である。1907(明40)年よりいち早く外国製オートバイを乗用した先駆者でもあった。また弟の伊東三郎氏も無類のオートバイ愛好家であり、後述する国産オートバイ、サンライズ号(1912年・明治45年5月完成)の製作に関与した。

 そして上記の談話に登場した「自転車商、双輪商会の主人」とは、後に国産初のガソリンエンジン付自動車「吉田式自動車」を製作した吉田眞太郎氏のことである。本編で追って詳述するが、吉田眞太郎は明治後期の自動車史、オートバイ史の上で、開拓者の筆頭にあげるべき最重要人物である。
 その吉田眞太郎の談話も、同じ「自動車」誌に掲載されている。

【6】「日本最初の自動車製作と輸入」 吉田眞太郎談 自動車 1919(大8)年3月号所載

『オートバイが先駆として輸入
 自動車がはじめて日本に輸入されたのは、
明治36年7)にオートバイが輸入されたのを以て、其の嚆矢としてよいであらうと思ひます。勿論其の以前あるいは輸入されたものがあったかも知れないけれども一般に知れたのは、明治36年にオートバイの試乗を以てしてよいのであります。よしまたこれ以前に輸入があったにしても1台か2台、それも完全なものではなかったでしょう。(中略)其の当時私は木挽町8)に双輪商会というものを経営して、自転車を商ふていたのであります。
全市を動かした日比谷の試乗
 其の当時双輪倶楽部といういふものが設立されてあったのです。事務所は双輪商会の中に置いて私もその事務に関係しておりましたが、会長は其の当時の二六新聞社の社長秋山定輔氏でした。其の双輪倶楽部に横浜の
アベンハイム兄弟商会からトーマスといふオートバイを試乗してくれろと申込みがありました。倶楽部では其の申込みに応じて日比谷で試乗することにいたしました。これが日本に完全なるオートバイの輸入されたはじめで、また同時に自動車の輸入された最初といってよい事は最初にいふた通りであります。
 自転車ですら物めづらしく感じられた時代と幾等も隔つていない時でありましたから、オートバイの駛走は実際其の当時の人達の驚異の目をそそったのです。倶楽部員は当時の知識を網羅しておりましたから、既にオートバイの存在は知っておりましたけれども、一般の公衆には聊か不意打の形もありましたので、試乗の当時は日比谷に人垣を築くほどの盛況であったのです。この試乗は倶楽部員に非常な深い印象を興へたのでした。
試乗会以前に輸入した自動車
 これより先、今上 天皇陛下が東宮に在りました頃
9)で、国母陛下と御大婚の大典を挙げさせ玉ふた折でありましたが、北米桑港在留の日本人から、この御大婚を祝しまいらせて、蒸気式の自動車10)を一輌献納したことがありました。これは吾々がアベンハイム兄弟商会の申し出を入れたトーマス自動自転車を試乗した時よりずっと早いのでありますけれども、それは桑港在留の人民の献芹の誠を御嘉納遊ばされ、東宮御所に飾っておかれたままで、御乗用はなかったように漏れ承 ってをります。
 更に遡るとその以前にまだ一台自動自転車の輸入がありました。それは十文字信介氏が独逸から輸入された事であります。しかしこれは十文字氏がオートバイというものを独逸から帰来したと噂には聞いたけれども、
噂だけで誰もその車を見た者がないのです。されば勿論市中を駛走した事などはなかったのであります。なほこの外に横浜辺にあるいは一、二輌は輸入されてあったかもしれませんが、駛走したのはトーマスの試乗が第一番でせう。』


 以上のように大正期に残された先駆者の回顧には、戦後に記された証言にはない以下ふたつの特筆すべき事項が登場している。
1)まずブルール兄弟商会のアベンハイムが輸入したオートバイ「トーマス」号が、双輪商会の吉田眞太郎氏ら自転車クラブ員によって東京で試乗されていたこと。
2)またトーマス号以前にも十文字信介なる人物が何らかのオートバイを輸入していたとの説があったこと。

 さて本編では年代順に、まず十文字信介氏のオートバイ輸入から検証してみたい。同時に前出の「小型自動車発達史」や「日本自動車工業史稿」で発生した誤謬の訂正を行なっていくことになるが、これはあくまでも史実を解明するための作業であり、その誤りを指摘することを第一義とするものではない。なぜならたとえ先達の調査研究に訂正を要する箇所が出たとしても、その研究成果の価値は少しも損われるものではないし、昭和20年代30年代に残された明治期先駆者達の証言は、平成の今日となっては二度とわれわれに与えられることのない貴い証言である。ましてや拙論とて、満足のいく資料を揃えて論証できる完全なものではない。ただいつの日か後世の研究家の足掛りになればと願い、将来再び拙論の誤りを訂正していただくことを願って書き綴るものである。
 また以下では明治期の新聞記事等を数多く引用する。これは新聞記事が過去の出来事の年月日を特定するための最良の史料だからである。記録や資料に手を加えず、なるべくそのまま扱うために、古い言い回しや旧かなつかいが頻出し、非常に読みづらいものとなってしまうが、読者にはどうかご寛容を頂きたい。
 
2.1.3 1896(明治29)年1月 1時間60哩の自転車到着

 十文字信介氏が輸入したオートバイに関する記述が新聞記事に登場するのは、1896(明
29)年のことである。
 東京の「中央新聞」は雑報の項で『一時間六十哩の自転車』と題し、以下のように報じた。

●1896(明29)年1月7日(火)付中央新聞 第3面
『一時間六十哩{マイル}の自転車 新年匆々{そうそう}横浜に到着したる自転車は独逸国ライプジッヒのゲルバートイーメ社製にして普通自転車に石油発動機を応用し一時間の速力は極めて平坦なる道路ならば六十哩は容易に行進すべく急坂悪路に於ては三十哩は確かなり此自転車は石油の力を仮るものなれば固より両足を動かすの労もなく唯車上に坐すれば自ずから行進する装置なり 輸入代価は五百五十弗なれど之を模造することは内地人の長所なれば将来凡そ三百円にて成功することならん新発明機械の輸入に熱心なる十文字信介氏は早くも一手販売の特約を取結びたる由』

 このように「新発明機械の輸入に熱心な」十文字信介氏が、ドイツから、時速60マイル(96km/h)で走行する「自転車」を輸入したことが紹介されている。この時点ではまだ自動自転車の呼称は現れず、「普通自転車に石油発動機を応用し」た自転車として表現されていたようだ。
 この明治29年当時すでに「石油発動機」が輸入され、販売が始まっていたことは前章に示した。また東京神田の十文字兄弟商会11)では、1895(明28)年以前にも石油発動機も輸入し、小型船に搭載し隅田川で航行させ公開していたという記録が残っている。したがって初めて出現した可搬式エンジンとしての石油発動機が小型交通機関の動力に応用できることは、一部の進歩的な日本人の間では理解するところだったのである。また'Oil Engine'を訳して初めて「石油発動機」と名付けたのも、弟の十文字大元であったといわれる(文献1より)。
 そして、「之を模造することは内地人の長所なれば将来凡そ三百円にて成功することならん」との見解については、前述のように、この時期には早くも、国産ガスエンジンの試作(1892年・明25年・東京工業学校製作)や、石油発動機の試作(1896年・明治29年・池貝鉄工所製作)が行なわれていた背景から察して、まったくうなずけない話ではない。
 ただしこの1896(明29)年には、まだ自動車は日本に伝来しておらず、日本人が知る、陸を走る動力付きの乗り物は、およそ蒸気機関車までにとどまっていた。
 さらに同時期の西欧オートバイ史に目を移してみても、黎明期の試作段階から脱却し、始めて複数台のオートバイが量産されたのが、この前年にあたる1895(明28)年だったのである。
 さてドイツで作られ、十文字信介が輸入した「一時間六十哩の自転車」とは、一体何だったのであろうか。


 
文献1 「十文字大元伝」 大正15年 同伝記編纂委員会編・発行
文献2 「日本自動車工業史稿」昭和40年10月 (社)日本自動車工業会発行


●写真解説

写真1Title Photo
 
写真2:1896(明29)年1月7日(火)付中央新聞 記事『一時間六十哩の自転車』



●脚注
 
1)混乱を避けるために予め訂正しておくと、以下の引用文に登場する、「ブルーウェル兄弟商会」、「プール兄弟商会」、「ブルー兄弟商会」とは、すべて同じ横浜山下町22番地にあった在日商館ブルール兄弟商会(仏名・Bruhl Freres)のことである。また「エベリー・ハイム」、「エバリー・ハイム」は何れも、アベンハイム(Abenheim)という名の同一人物である。アベンハイムはブルール兄弟商会横浜支店の駐在員であり、1904(明37)年以降は「アベンハイム兄弟商会」(英名・Abenheim Brothers)として独立し、ブルール兄弟商会の業務を継承した。
 
2)大塚正三郎とは1907(明40)年国産初のガソンリン自動車、吉田式自動車製作に携わった人物。1893(明26)年横浜山下町に生れ、居留地内の事情に通じていた。(文献2より)
 
3)松井民治とは、松井民治郎のこと。モーター商会の開業は明治34年。
 
4)トライアンプとはイギリス製「トライアンフ」号のこと。
 
5)雑誌「自動車」。1918(大7)年7月発刊。東京市麹町区内幸町にあった帝国自動車保護協会が発行した月刊の自動車専門雑誌。1919(大8)年7月には、「自動車及び交通運輸」と誌名変更された。
 
6)現在の東京上野公園内不忍池の周囲。
 
7)後編で詳述するが、この1903(明36)年というのは、吉田か記者の誤り、あるいは誤植と思われる。
 
8)当時の東京市京橋区木挽町、現在の東京都中央区銀座木挽町。
 
9)大正天皇が皇太子だった頃。
 
10)献納車が日本に到着したのは1900(明33)年8月のこと。蒸気ではなく電気式の米国製4輪自動車で、シカゴで作られたウッズ(Woods・車名)との説が現在は有力である。
 
11)1894(明27)年開業。東京市神田区須田町23番。十文字信介(1852-1908)と十文字大元(1868-1924)の共同経営により1903(明36)年まで営業した(文献1より)。前出の伊東太郎の回顧に登場する「銀座の十字屋」は、十文字兄弟とは関係ない。



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(写真1)
:日本自動車工業史稿1〜3巻(左)。小型自動車発達史(右)



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Last Updated 7th July 1995